私たちの周囲には、裏の意味のある言葉が溢れています。

マスメディアであれ、政治であれ、身の回りの人々であれ、誰かがいつも、自分の信念を裏付けるために言葉やフレーズを使い、悪意を持って私たちの考えを変えようとしています。

パートナーがうわべだけのお詫びをしながらさり気なくこちらの勘違いだと思い込ませてくるガスライティングや、上司が勤め先は「家族のようなもの」だからと言って日曜日に出勤させようとしてくるなど、様々な形があります。

身近な人を追い込む「心理的虐待」のメカニズムとその対処法

身近な人を追い込む「心理的虐待」のメカニズムとその対処法

1. 受動態の力

高校の英語の先生は、文章を書く時に受動態を使わないようにと教えてくれたでしょう。受動態だと、文章が弱くなってしまうのです。

しかし、文章を弱くしたいということであれば、特に誰かの責任を免れさせたい場合には、受動態は強力なツールになります。

これは、警察署の広報部の常套手段です。

「昨夜、警察官が男を撃ちました」というような簡単なフレーズでも、次のように受動態を使うことで責任を取り除いたり、軽減したりすることができます。

「昨夜、警察官が巻き込まれる発砲事件が発生し、容疑者が負傷しました」とするのです。

警察官の行動を受動構文にするとともに、行為者がいない状態で銃撃が起こったというように「出来事」が記述され、撃たれた男性は「容疑者」と説明されています。

どちらも責任を取り除く働きをしています。警察の報道発表で、「昨夜、市民が巻き込まれる銃撃事件が発生し、警察官が負傷しました」という内容を目にすることはありません。

雇用主も、いつもこの手を使います。会社は、「経営陣が休憩室の方針を変更し、電子レンジで魚を調理することを禁止しました」という内容のメールを送る代わりに、「電子レンジでの魚調理に関する方針が変更されました」と言うでしょう。

これは、実際に方針を変更したのが誰かを不明瞭にしようとしているのです。あたかも、経営陣が決定したのではなく不可抗力があったかのように見えます。

子供が3歳の時に私生活でしていたことですが、「寝る時間は8時」というポスターを貼っていました。

もし寝るのを嫌がったら、ルールを指差して「ごめんね。ルールで寝ることになっているんだよ」と言っていました。

最終的に子供は賢くなって、「待って、ルールを作ったんでしょ!」と言いました。皆さんにも、そうすることをお勧めします。

このような言葉を目にした際は、ルールを作ったのは誰か、方針を変えたのは誰か、銃を撃ったのは誰か、と自問しましょう。そして、その理由を考えてみるのです。

2. 「間違いが起きた」と謝罪風の言い回し

「間違いが起きた」というフレーズは、究極の言い逃れでしょう。大抵は、誰かが失態を否定できなくなったときに使われます。

責任を認めているように見えますが、実は話をそらそうとしているのです。基本的にはミスを自分のせいにして、どんな間違いが起きたのかさえも曖昧にします。次に続くお決まりの言葉は、ほとんどの場合、言うまでもありません。

「だから、この不快な気持ちは忘れよう」です。

これは、企業や政治家にとっては、政治的・法的な影響を避けるために(腹立たしいにしても)有効な手かもしれませんが、個人レベルでは効果はほとんどないでしょう。

石油会社は、原油流出事故を「間違いが起きた」と言ってやり過ごすかもしれませんが、それが有効なのは、深海での石油掘削が複雑な作業である(そして法的責任を回避しようとしている)からです。

(言うまでもないことですが、何かをやらかしてしまった場合、責任を小さなものにしようとはしないでください。自分の間違いを完全に認めて謝罪し、今後どのようにして再発を防ぐかを述べるほうがいい場合がほとんどです。プロの危機管理広報担当者ほど嘘が上手ではないでしょうし、いずれにせよ誰も信じないでしょう)。

もうひとつの謝罪風の手口は、「傷つけたのであれば申し訳ありません」というようなフレーズを使うことです。

あるいは、「そう感じてしまったことについては申し訳ありません」などです。

こういった言い方は謝罪のように見えますが、よく読むと、謝っているのではないことがわかります。責任を取らず、むしろ不当な扱いを受けた人に責任を押し付けているのです。

3. 文脈の省略

人が何を言わないかは、何を言うかと同じくらい重要であることが多く、読者が自分の偏見や先入観で「空白を埋める」よう促すために頻繁に使われるのが省略です。

私が「司法省の調査により、ドナルド・トランプの2016年の大統領選挙キャンペーンがロシアの情報機関と関係を持っていたことが明らかとなった」などと書けば、リベラルな読者は激しくうなずく一方、保守派は「魔女狩りだ」と叫ぶことでしょう。

しかし、「司法省の調査で、バーニー・サンダースの2016年の大統領選キャンペーンがロシアの情報機関と関係を持っていたことが明らかとなった」と言えば、保守派とリベラル派の立場が逆転するでしょう。

実は、どちらの発言も事実としては正しく、同じ司法省の報告書に基づいています。違いは、関わった政治家を皆さんがどう感じているかだけです。

仕事生活では、文脈を省略して誤解を招くような行為は横行していますが、職業上最もよく見かける状況のひとつが履歴書です。

「会社の売上目標を3倍にすることに貢献しました」と書くのは、一応は正しいかもしれませんが、もしその貢献が床掃除だったとしたらそうはいきません。

簡単に見破られ、特に履歴書を一日中読んでいる人の目には明らかなので、人事部は売上目標を3倍にするために具体的に何をしたのかを聞いてくるでしょうが、説得力のある嘘はつけないでしょう。

4. ポジティブに思えるフレーズに隠されたネガティブな前提

ビリー・ジョエルの哀愁漂うバラード「素顔のままで」は、1977年のリリース以来、何十億もの結婚式で流されてきましたが、歌詞をよく考えてみると、これはとてつもなく受動的攻撃性を持ったパッシブ・アグレッシブな内容です。

「素顔のままの君を受け入れるよ」は、現状に何か問題があることをさり気なく暗示しており、そのうえでこの話し手は、君はとても素晴らしい人だからと、とりあえず妥協しているのです。

「誰が何と言おうと、君は素晴らしい人だ」というようなことを言うのと似ています。

もし誰かが「何があっても君を愛している」などと言った場合、その人は全く無邪気にいいことを言おうとしているかもしれませんが、それは毒薬になり得る言葉であり、ナンパ師が「褒めているように見せかけて侮辱している」ようなものです。

どちらにしても、もっと深い話をするべきでしょう。

ある人が「自分の欠点を寛大に無視している」とよく思うことがあるなら、その人との関係はガスライティングなどの前兆かもしれません。

5. 意見の普遍性を前提にする

「誰もが知っている」や「たくさんの人が言っている」といったフレーズの問題点は、一見して明らかです(「誰もが」とはどういう意味でしょうか?また、そう言っている「たくさんの人」とは一体誰のことなのでしょうか?)が、透明であるという点では同じくらい効果を発揮します。

私たちは、自分に同意してくれる大きな集団の一員でありたいと思っているようで、そのため「誰もが」すでに自分と同じ見方をしているのだと受け入れる傾向があります。

さらに、生活のオンライン化が進み、私たちがどの意見を目にするかを正体不明のアルゴリズムが決定するという現状が加わると、誰もが(悪意のあるバカはともかくとして)もとより自分の意見に同意しているのだ、と信じることがさらに容易になります。

これがとても油断できないのは、「相手側」がそうしている際に気づくのは簡単ですが、「自分側」が同じことをしていると受け入れるのがとても難しいからです。

常に目を光らせ、気づいたことを教えてください

『An Illustrated Book of Loaded Language』の中心となっているアナグマとウサギの戦いは、私たちが生きている間には終わりません。

それでも、悪意のある言い回しに出会った際には、それに気づいて声を上げることができます。

そのためにも、皆さん自身の「裏の意味のある言葉」の個人的な例を教えていただければと思います。