完全試合投手「佐々木朗希」の名字 「鎌倉殿の13人」にも登場…4兄弟の活躍で勢力広げた「近江の大豪族」がルーツ

森岡 浩 森岡 浩

今年5月に28年振りの完全試合を達成した、ロッテの佐々木朗希投手。7月26・27日に行われるオールスター戦にもファン投票の結果、パ・リーグ先発投手部門で初選出された。プロで完全試合を達成した選手は佐々木朗希を含めて16人いるが、うち3人が「佐々木」投手である(あとの2人は佐々木吉郎、佐々木宏一郎)。

この「佐々木」という名字は、全国ランキング13位というメジャーな名字ながら、そのルーツは1カ所に限定されている。そして、その先祖には大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場し、歯の抜けた役柄が話題となった老武者・佐々木秀義がいる。

平安時代中期、第59代宇多天皇は、皇子のうち後に醍醐天皇となる敦仁親王を除く4人の皇子に源姓を賜って臣籍に降した。この子孫は宇多源氏と呼ばれ、敦実親王の子の源雅信は左大臣となるなど、子孫は公家として栄えた。宇多源氏の公家としては、五辻家、庭田家、綾小路家などがある。

一方、源雅信の二男扶義の子孫は武家となり、近江国蒲生郡佐々木荘(現在の滋賀県近江八幡市・東近江市)に住んで佐々木氏を称した。ところが、近江国蒲生郡には古くから沙沙貴神社を氏神とする古代豪族の狭々貴山(ささきやま)氏の子孫という佐々木氏がおり、新しく入部した宇多源氏の佐々木氏は勢力を伸ばすことが難しかった。

さらに佐々木秀義は源義朝に仕えたものの、平治の乱で源義朝が討たれたことから佐々木荘を追われ、藤原秀衡の妻となっていた母方の叔母を頼って奥州に下る途中、相模国で渋谷重国の食客となって留まった。そして、4人の息子を伊豆に配流されていた頼朝のもとに通わせ、宇多源氏佐々木一族の復活を託した。

頼朝が挙兵すると、定綱・経高・盛綱・高綱の4兄弟が参陣、とくに四郎高綱は宇治川の先陣で名高い。その活躍によって鎌倉幕府の成立後は佐々木荘を回復しただけではなく、長男定綱が近江守護となるなど、一族で12カ国の守護に任ぜられた。以後、佐々木一族は狭々貴山氏系佐々木氏を一族として取り込み、沙々貴神社を本拠として全国に広がった。

承久の乱では惣領の広綱(定綱の長男)と経高が京方に与して滅んだため、広綱の弟で四男の信綱が惣領を継いだ。

信綱は北条義時の娘を娶り、子孫は代々近江守護を世襲した。やがて京都の六角に屋敷があったことから六角氏と名乗り、戦国時代まで南近江の大名として続いた。

この他にも、近江の戦国大名の京極氏や朽木氏、山陰の戦国大名尼子氏や隠岐氏も佐々木氏の末裔である。

各地の佐々木氏は、ほぼこの近江佐々木氏の末裔と伝え、沙沙貴神社の境内には佐々木氏発祥の地の碑も建てられている。

現在は東北に多く、とくに佐々木朗希の出身県である岩手県では「佐藤」についで2番目に多い。

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