エジプト「王家の谷」に、KV17という名の墓がある。紀元前1279年に亡くなった古代エジプトのファラオ、セティ1世の墓だ。墓の名前は無味乾燥だが、1817年に発見されたときには、亡きファラオや古代エジプトの神々を描いた色鮮やかな壁画が、発掘チームを驚嘆させた。
王家の谷には、古代エジプトが新たな高みに到達した新王国時代(紀元前1539年頃〜紀元前1075年頃)の多くの支配者が埋葬されている。砂漠のネクロポリス(「死者の町」を意味するギリシャ語。大規模な墓地を指す)の建設は、長きにわたる不安定な時代の果てにエジプトを復活させた第18王朝の第3代王トトメス1世の治世に始まった。ナイル川西岸の人里離れた岩山の谷が王族の埋葬地に選ばれたのは、墓泥棒の手から贅沢な墓を守るためだった。のちに、新王国のほかの支配者たちも同じ場所に墓を建造し、ネクロポリスは拡大していった。
埋葬品を隠す努力もむなしく、有名なツタンカーメンの墓を除き、ほとんどの墓がひどい盗掘に遭った。セティ1世の墓も例外ではなく、黄金の副葬品はもちろんファラオのミイラさえなかった。それでも貴重なお宝が残されていた。状態の良い、鮮やかな壁画である。現代の学者は、この壁画から古代エジプトの精神性や王の葬儀を垣間見ることができた。
イタリア人の冒険家
紀元前1世紀のシケリア(現在のシチリア)の歴史家ディオドロスは、すでに王家の谷を「廃墟」と表現していた。その後も、自然と人為的な原因の両方により遺跡の損傷は進んだ。1798年のナポレオンによるエジプト侵攻をきっかけに、1800年代初頭にはエジプト全土から多くの遺物が略奪され、ヨーロッパで販売されるようになる。
サーカスの怪力男を演じた経験をもつイタリアの冒険家ジョバンニ・ベルツォーニが1815年にエジプトに到着したとき、エジプトは英国の支配下にあった。ベルツォーニは探検家であると同時に墓泥棒でもあった。しかし、英国領事ヘンリー・ソルトはその点は気にしなかったらしく、古代エジプトのファラオ、ラムセス2世の巨大な胸像をアレクサンドリアに輸送し、そこから船でロンドンの大英博物館に輸送するのにベルツォーニの手を借りている。ベルツォーニは、墓泥棒のグループを雇い入れたフランス領事との縄張り争いにも巻き込まれた。
フランスのライバルに勝つための戦略の一環として、ベルツォーニは王家の谷の近くで墓泥棒をしている地元の人々と仲良くなって情報を入手し、この地に精通するようになった。ベルツォーニは純粋に考古学に興味を持っていた。彼は谷の地形を研究し、雨水の排水の速さが、隠れた穴の存在を暗示していることに気づいた。
1816年の冬には、ベルツォーニは第18王朝のファラオであるアイの墓を、翌年10月には、彼の部下が第19王朝の創始者であるラムセス1世の墓を発見した。この発見の過程で、ベルツォーニは雨水をたちまち吸収する小さなくぼみがあることに気づいた。これは、下に空洞があることを示している。掘ってみると、がれきで埋められた入り口が見つかった。がれきを取り除くと、すばらしい装飾を施された壁が見えてきた。
墓を調べていったベルツォーニは、防腐処理を施された雄牛を発見した。人間のミイラは1体も見つからなかったため、彼はこの墓を、エジプト北部で崇拝されていた聖なる雄牛アピスに捧げられたものだろうと考えた。
驚異のギャラリー
この墓が誰のものであったかはわからなくても、内部を飾る壁画のすばらしさは一目瞭然だった。発見から数カ月後、ベルツォーニはレリーフの型取りを試みて、壁画を激しく損傷してしまった。彼はまた、壁画を写生した水彩画も描いている。
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