ラクシュミ・バーイーの物語はまるでシンデレラストーリーだ。19世紀半ばのインドで、庶民からジャーンシー藩王国のラニー(王妃)になった。ほとんどのおとぎ話はここで終わるが、ラクシュミ・バーイーの場合、戦う王妃としての並外れた人生の始まりにすぎない。
ラクシュミ・バーイーは1853年、20代半ばで摂政に就任し、1857年に勃発したインド大反乱の中心人物となった。インド大反乱は歴史学者の間で、第1次インド独立戦争とも呼ばれている。ラクシュミ・バーイーは数千人規模の歩兵隊、騎兵隊を率いて英国軍と交戦した。馬に乗り、手綱を口にくわえ、二刀流で戦ったと伝えられている。
ラクシュミ・バーイーの物語は歴史と伝説が混在している。彼女は最終的に、国を失って戦死した。しかし、90年後のインド独立で幕を閉じた反植民地闘争の象徴的な存在となった。
英国に抵抗、インド大反乱へ
ラクシュミ・バーイーは1827年ごろ、現在のインド北東部バーラーナシーで生まれた。本名はマニカルニカで、父親はマラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世の助言者として働くバラモンだった。
4歳のときに母親を失ったマニカルニカは、父親とともに王宮で暮らし始める。宰相バージー・ラーオ2世はマニカルニカを実の子供のように育てた。当時の女の子にほとんど縁がなかった教育を受け、男の子と一緒に武術、剣術、乗馬の訓練を受けた。
1842年、若いマニカルニカはジャーンシー藩王国の王(マハラジャ)であるガンガーダル・ラーオと結婚。結婚後、ヒンドゥー教の富と幸運の女神ラクシュミに敬意を表し、ラクシュミ・バーイーと改名した。しかし、家族としては幸運に恵まれず、生後わずか数カ月で息子を失った。そして1853年、年が離れた王も病を患う。夫妻はヒンドゥー教の伝統に従い、親類の息子ダーモーダル・ラーオを5歳で養子に迎え、王位継承者に指名。その直後、ラクシュミ・バーイーは夫と死別した。
大英帝国を拡大しようともくろむ東インド会社は、すかさず「失権の原理」を適用した。これは藩王国の王に嫡子がいない場合に、養子を認めず、東インド会社が併合の権利を得るという政策だ。ラクシュミ・バーイーは賠償として6万ルピーの年金を提示されたが、若き王妃は「私のジャーンシー藩王国は決して放棄しません」と宣言、植民地主義者と戦うための軍隊を組織した。
その後、東インド会社のインド人傭兵セポイ(シパーヒー)が北部の都市メーラトで蜂起した。インド大反乱の始まりだ。