リンカーンではなかった? 米大陸初の奴隷解放宣言

米国の独立に際し、英国軍として戦った黒人奴隷たち

2021.05.05
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米国の独立戦争のさなか、独立を求める大農園主のもとから逃げ出し、英国軍に保護されるアフリカ人奴隷たち。(GRANGER)
米国の独立戦争のさなか、独立を求める大農園主のもとから逃げ出し、英国軍に保護されるアフリカ人奴隷たち。(GRANGER)
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 1775年、北米東岸にあった英国の13植民地が、本国からの自由を求めて武器を取った。米国の独立戦争の勃発だ。ただし、その戦いに参加していた黒人兵のうち数百人は、英国の敵としてではなく、味方として戦っていた。

「奴隷に自由を(Liberty for Slaves)」と書かれた肩帯をつけていたと言われる「エチオピア連隊」(エチオピアという言葉は黒人の意味で使われていた)だ。黒人兵たちは、自由を勝ち取るという決意のもと、かつての主人たちに反旗を翻した。

 彼らが戦いに参加した理由は、米大統領エイブラハム・リンカーンによるかの有名な宣言よりも100年近く前に提示された、米大陸初の奴隷解放宣言だった。

植民地の富を支えた奴隷

 アフリカ系の人々が東海岸のバージニア植民地にやってきたのは1619年、最初の白人入植者がここに到着してから十数年後のことだった。独立戦争が始まる18世紀後半には、バージニアは13植民地の中でも最も大きく、最も繁栄した植民地となっており、黒人は50万人の住民のうち半分近くを占めていた。(参考記事:「植民地建設当時のアメリカ」

 大多数の黒人はタバコ畑で働かされていた。タバコ畑はバージニアの富の大半を生み出し、その富がジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンといった独立戦争の指導者たちを含む大農園主を支えていた。

 こうした指導者の前に立ちはだかったのが、バージニア植民地の英国総督を務めていた、スコットランド貴族ダンモア伯のジョン・マレーだった。1775年4月、マサチューセッツ植民地で大陸軍が英国軍と衝突したことを受け、ダンモア卿は、自らの植民地で増加しつつあった暴動を鎮めるために、先住民と黒人を武装させるという計画を思いついた。この計画に関するうわさが広まると、日ごろから奴隷の反乱におびえて暮らしていた白人たちは警戒を強めた。

 当初、ダンモア卿はこの考えをいったん撤回している。そのため、奴隷の身分からの解放を求めて英国総督の屋敷にやってきたアフリカ人の一団を追い払った。

 6月になるころには、ダンモア卿は屋敷のあるウィリアムズバーグを出て、ノーフォーク沖に停泊する英海軍の戦艦に家族とともに避難していた。するとチェサピーク湾の南端の港町ノーフォークに、奴隷も自由な身分の者も含め、大勢のアフリカ系の人々が集まってきた。

スコットランド貴族のダンモア伯ジョン・マレー。自身も奴隷を所有していたが、奴隷にされた人々に対し、英国軍に加わることを条件に自由を約束した。(National Galleries Of Scotland/Getty Images)
スコットランド貴族のダンモア伯ジョン・マレー。自身も奴隷を所有していたが、奴隷にされた人々に対し、英国軍に加わることを条件に自由を約束した。(National Galleries Of Scotland/Getty Images)
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 英国側はすぐさま彼らを使って夜ごと大農園を襲撃させ、食料や物資を確保した。すると、これに触発されたほかの奴隷たちも、ある者は走って、またある者は手漕ぎのボートや帆船を使って逃亡を試みるようになった。『バージニアガゼット』紙にはこうある。ノーフォークは「奴隷たちであふれており、彼らの指導者の合図があれば、すぐに反乱を起こせる準備ができている」。その指導者とはダンモア卿のことだ。

 11月14日、ダンモア卿は、英国軍と少数の黒人兵をケンプス・ランディングという場所へ送り込んだ。その後勃発した小規模な戦闘により、英国兵と黒人兵は、数百人にのぼる大陸軍を敗走に追い込んだ。

次ページ:「米国の独立に大きく貢献」した宣言

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