1764年のある日、フランス中南部ジェヴォーダン地方の森で、少女の遺体が発見された。被害者は14歳の羊飼いジャンヌ・ブーレで、オオカミに襲われたと思われる深い傷跡が残されていた。
当時、こうした死は珍しいものではなかった。子どもが一人で羊や牛の世話をすることは多く、オオカミの危険は付き物だった。
ところがその後、ブーレのような遺体が次々に見つかる。大きな傷を負っていたり、手足がバラバラになっていたり、さらには首を切断されたりと、襲った動物が何であれ、それは通常のオオカミよりもはるかに凶暴だった。オオカミ男の仕業だとの噂がささやかれる中、犯人は「獣(la bête)」と呼ばれるようになった。
獣は3年間にわたってジェヴォーダンを恐怖に陥れ、100人もの人々を死に追いやった。300人との説もある。同地方では、1764年から1767年の間に、100頭以上のオオカミが殺された。しかし、犯人が本当にオオカミだったのかどうか、学者たちはいまだに結論を出せていない。(参考記事:「オオカミは人間を襲うのか? ノースウッズ・ジャーナル 大竹英洋」)
フランス全土がおびえる
ジェヴォーダンは、フランスのオーベルニュ地方とラングドック地方にまたがる険しい高地に位置する、歴史ある土地だ。かつては繁栄していたが、16世紀の戦争で農村の経済は疲弊していた。大半の人々は貧しく、家畜の放牧で生計を立てていた。
ブーレと続く数人の死を受け、若い羊飼いたちは集団で行動するようになった。しかし、獣に数は関係なかった。襲撃は続き、多くの女性や子どもの命が奪われた。1764年の秋には、恐ろしい怪物がいるとの噂はジェヴォーダンを越えてフランス全土に広まった。
獣は、クーリエ・ダビニョン紙の編集者であるフランソワ・モレナスのおかげで国民的な関心事となった。1763年に英国との七年戦争が終結した後、モレナスはニュースに飢えていた。センセーショナルな記事で名を売っていたモレナスは、「ジェヴォーダンの獣」の話で新聞の売り上げを伸ばし、国中にその噂を広めていった。
ただでさえ恐ろしい襲撃事件は、記者たちのドラマチックな報告によって、さらに恐怖心を煽るものとなった。ある記事では、獣は驚くべき速さで動くとされた。別の記事では、悪魔のような眼差しをしているとされた。また、別の記事では、「狡猾で強靭で熟練した剣闘士」のような知性を持っているとされた。1764年終盤のモレナスの記事における獣は、神話に登場するネメアのライオン等、怪物たちと並べて語られるようになっていた。
新聞には、獣の恐ろしさについてだけでなく、生存者の体験談も掲載された。1765年1月には、子どもたちが棒で獣の攻撃を防いだとの記事が載った。3月には、ジャンヌ・ジューブという女性が3人の子供を守るために戦ったが、うち6歳の子は傷がもとで亡くなったと報道された。最も有名なのは、「ジェヴォーダンの乙女」と呼ばれたマリー=ジャンヌ・バレで、銃剣で獣の胸を傷つけて撃退したとの話だった。
獣退治に挑んだ人々
獣退治を出世や名誉挽回のチャンスととらえる人もいた。地元の軍人ジャン・バティスト・デュアメルは、1764年の秋、何千人もの地元の人々に協力を求め、獣退治に挑んだ。デュアメルは、獣の背中に黒の長い縞模様があるとの報告から、これはオオカミではなく大きなネコ科動物ではないかと推測した。「この動物はライオンを父に持つ怪物で、母が何であるかはまだ不明である」。 デュアメルは最善を尽くしたが、怪物を捕らえることはできなかった。
1765年初頭までに、ジェヴォーダンの一連の出来事は国王ルイ15世の目に留まった。国王は、棒で獣を追い払った少年たちに褒賞を与え、リーダー格の少年には無償の教育を施した。3月になると、王は獣を捕らえるために自らの猟師たちを派遣した。ノルマンディー地方の著名なオオカミハンター、ジャン・シャルル・ボームスル・ダンバルが責任者に任命されたが、彼もまた失敗に終わった。(参考記事:「世界の「鬼」と「鬼退治」」)