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「一応、交渉の権利だけ取ってくれませんか」広岡達朗がプロ入り拒否の工藤公康を6位指名した夜

『92歳、広岡達朗の正体』

『92歳、広岡達朗の正体』が3月14日に発売

現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売前から注目を集めている。 巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。 (以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

〜西武ライオンズ時代・工藤公康の証言(前編)〜 ドラフト6位での強行指名

一九八四年六月下旬、雨の音が湿っぽくも耳に馴染む梅雨の真っ只中、ペナントレースも三分の一を消化した頃だ。監督室の椅子にもたれかかっている広岡達朗は、抑揚のない低い声で突き放すように言った。 「工藤、今季からアメリカで修行してこい」 「え アメリカですか?」 思いもよらぬことだっただけに、どんぐり眼の工藤公康はさらに目を丸くさせた。 「以上だ。後はマネージャーに聞け」 これ以上何も聞くなという雰囲気を醸し出し、広岡は書類に目を通すため顔を伏せてしまった。仕方なく工藤は「はい」と小さい声で返事しながら監督室のドアを開けた。 「アメリカで修行って言ってたけど、アメリカ留学ってことだよなぁ」 〝アメリカ〟という単語に戸惑いを見せる工藤だったが、留学への不安というより今シーズンはもう必要ないという烙印を押されたショックのほうが隠しきれない。西武球場内の薄暗いスロープに、スパイクの歯が立てるカチャカチャという金属音が耳障りに響くのだった。 工藤公康。名古屋電気高校(現愛工大名電)のエースとして、ストレートと縦に落ちるカーブを駆使し、八一年夏の甲子園二回戦の長崎西戦で16奪三振のノーヒットノーラン。一躍脚光を浴び、ベスト4まで進出した。この活躍によって超大型左腕としてドラフトの目玉となるはずだった。しかし、工藤は甲子園大会後、早々と高校卒業の進路として社会人野球チームの熊谷組入りを決めた。いわゆるプロ入り拒否の意思である。 広岡はドラフト前夜に、根本管理部長と最終打ち合わせをしていた。 「根本さん、今年のナンバーワンピッチャーはズバリ誰ですか?」 「名電の工藤だろうな。でも彼は熊谷組に決まっている」 「一応、交渉の権利だけ取ってくれませんか」 広岡の言いたいことをすぐさま理解し、根本も即答する。 「わかった。他の球団も指名して来ないだろうから、最後の枠で指名しよう」 こうして西武ライオンズはドラフト六位で工藤公康を指名した。 この工藤への指名は、巷では根本の囲い込みだ、西武包囲網だと揶揄された。もし、出来レースだとしたら、本人のプライドを考えて下位での指名ではなかっただろう。指名後の入団交渉も熊谷組と西武側でいろいろ調整が大変だったと聞く。出来レースであれば、こんなことはないはずだ。実際に、早くから社会人熊谷組に行くと表明していた工藤はプロに行く気などさらさらなかった。だがドラフトから数日が経った夜に、根本が工藤家に訪れた。晩飯を食べ酒を酌み交わしながら、父・光義と意気投合して話し込んでいる。 「おい、起きろ!」 父・光義の声がする。「なんだ?」。時計を見ると夜中の三時だ。 「おい、公康、お前プロに行け!」 無理矢理叩き起こされた工藤が寝ぼけ眼で見ると、上機嫌で酔っ払っている父・光義は真っ赤な顔して「いいな、西武へ行け」と叫んでいる。 「うん、わかった」 工藤は眠くて仕方がなかったため、生返事をして再び床についた。結局、工藤は熊谷組ではなく西武ライオンズを選んだ。
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「こいつは二軍に置いていたらだめだ」広岡の決断
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