「カプリチョーザ」創業者の娘が守るのは、若くして亡くなった父の味。日本で“本格イタリアン”が成功した理由とは?

東京ウォーカー(全国版)

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日本にいても気軽に本格的なイタリア料理が食べられることは、今ではごく当たり前の話。では、どのようにしてイタリア料理が日本に広まったかを知っているだろうか。その歴史は、きっかけとなったと言われるレストランチェーン「カプリチョーザ」が誕生した45年前にさかのぼる。

今でこそ全国的に有名なカプリチョーザだが、東京・渋谷の片隅にあるわずか6坪の小さなレストランから始まったそうだ。そこで提供される本場のイタリア料理の味わい、そして圧倒的なボリュームにより、日本に“本当のイタリア料理”を浸透させたことで知られている。しかし当時のイタリア料理といえば、まだ敷居が高いもの。なぜ同店がここまで世間に受け入れられ、今でも絶大な支持を得ているのだろうか。

今回は、創業者の娘で、カプリチョーザを運営する株式会社 伊太利亜飯店 華婦里蝶座の取締役副社長である本多理奈さんに、カプリチョーザの45年間の変遷を聞いた。

創業45周年を迎えた「カプリチョーザ」。その歴史を、創業者の娘・本多理奈さんが語る


大阪万博でも活躍した日本人シェフが開業

カプリチョーザの創業者は、飲食業界では「レジェンド」と言われているシェフの本多征昭さん。若くしてイタリアに魅せられた征昭さんは単身でローマに渡り、国立エナルクホテル学校で料理の腕を磨いた。その努力と技術が認められ、1970年の大阪万博ではイタリア館の料理人として凱旋帰国。征昭さんが26歳のときのことだった。

カプリチョーザはたったひとりの日本人シェフの挑戦から始まった


その後、独立して1978年に「カプリチョーザ」をオープン。現在活躍しているイタリアンレストランの日本人シェフたちがイタリアに修行に行き始めたと言われている時代だ。こうした時代背景的にも、カプリチョーザは日本におけるイタリア料理の先駆けと言っていいだろう。

「それまでの日本で言う『イタリアン』は、いわゆる“和風”のものが大半だったそうです。ナポリタンやミートソースのパスタなどですね。その時代に本格的なイタリア料理をご提供すべく、父がオープンさせたのがカプリチョーザでした」と理奈さん。

ちなみに「カプリチョーザ」という名前の由来は、本国・イタリアではピザの名前になっているもので、「気まぐれ」「おまかせ」といった意味があるという。また、当初は外国人客も多かったことから、征昭さんは「漢字にしたら外国人客が喜ぶだろう」と漢字をあてがい、「華婦里蝶座」とした。

創業者・本多征昭さん。「華婦里蝶座」の銅レリーフ看板の前での一枚

現在も渋谷本店に掲げられている「華婦里蝶座」の銅レリーフ


「イタ飯」という呼称も本多シェフが発案?

カプリチョーザが開店したころ、東京にも本格的なイタリアンを提供する店がいくつかあったが、他店はいわゆる「リストランテ」であり、特別な日にフォーマルな服装で訪れるような高級店ばかり。

そんななか、カプリチョーザは「カジュアルに日常的に利用してもらうこと」をコンセプトにしており、味わいは本格的でも、気取らずにボリューミーな料理を楽しめるのが特徴だった。

「創業当初はシェフが父ひとりだけだったので、『細やかなオーダーを受けられない』という理由もあったようですが、たとえば4名のお客様がご来店くださったら、ひとつの料理を『はい、これね!』とボーンと出し、お客様同士でシェアしてお召し上がりいただくスタイルだったようです。また、母によると、『イタ飯』という呼称は父が作ったと言います。というのも、今ほどイタリア料理が浸透していないカプリチョーザ開店前後から、父は自分の料理を『イタ飯』と呼んでいたらしいので…間違いではないと思います(笑)」

伊太利亜飯店 華婦里蝶座の取締役副社長で創業者の娘である本多理奈さん


若くして亡くなった“父の味”を守れた理由

カプリチョーザの味と存在感は、最初は外国人やクリエイターといった感度の高い人たちの間で支持を得たが、やがて連日大行列ができる話題の店となった。

この噂を聞きつけた、現在の「カプリチョーザ」チェーンの運営元であるWDI GROUPの会長が店を訪れ、その味に感動。「一緒にやらせてもらえないか」と征昭さんに猛プッシュしたという。

「このお話をいただいて、父はかなり困惑したようです。レシピすらなく、あくまでも長年の感覚で作った料理をお出ししていたことに加え、『お店を大きくしてチェーン展開するぞ』という発想も持ち合わせていなかったからです。むしろ『お客さんが喜ぶ顔を直接見たいから店をやっているんだ』といった理由でずっと厨房に立ち続けていたので、正直なところ『うるさい人が来たなぁ』といった印象を持っていたのだとか(笑)。しかし、会長が『レシピがないのなら、うちの社員を店に送り込んで一緒に働かせてもらいながら、レシピを構築していきたい』と熱意を持って接してくださり、まずはそこから始まりました。しかし父は、『覚えたいなら、見て覚えろ』『料理なんて毎回同じ味が出せるわけない。むしろそこが料理のおもしろいところなんだ』といったタイプなので、来てくださったWDIのスタッフさんたちは相当苦労されたんじゃないかと思います」

開店後、しばらくして大盛況となった「カプリチョーザ」


送り込まれたWDIのスタッフは、後に征昭さんから信頼を得られることとなり、チェーン化の許しを得ることができた。長い目で見ると、この取り組みが「カプリチョーザ」の名、そして味わいを、今日まで生かし続けるきっかけにもなった。

「1988年、父は44歳で病に倒れ、亡くなりました。最初の開店が1978年ですから、10年前後しかお店に立っていなかったということになります。前述のとおり、当初はレシピが存在しなかったので、父が亡くなったらカプリチョーザの味はもう再現できません。しかし、その前にWDIと本格的に組むことになりレシピ化できていたので、父が亡くなったあとも“父の味”を広く知っていただき、生き続けることになりました。これは本当にありがたいことでした」

大盛況のカプリチョーザだったが、ある日突然あるじを失った


45年間で唯一の大打撃だったコロナ禍

生前の征昭さんがカプリチョーザのチェーン化を確認できたのは、5店舗目まで。征昭さんの没後、カプリチョーザはさらに成長を続け、最盛期の1990年代には国内外で最高130店舗を展開することになった。

ところで「イタ飯」と聞くと、“バブル期に流行した食文化”といったイメージがあるが、理奈さんによれば、バブル崩壊によって同ブランドに何か影響があったということはなく、むしろカプリチョーザの味や楽しさは、バブル崩壊以降のほうがどんどん広まっていったとのこと。

「カジュアルにお召し上がりいただけるイタリアンレストランなので、父の死後もぐんぐん成長し続けていました。しかし、2020年のコロナ禍で初めて苦難の時代を迎えます。緊急事態宣言の発令で1カ月以上営業ができないことになり、これは大打撃でした。年間の売り上げは半減し、複数の店舗の閉店を余儀なくされ、現在は100店舗ほどとなっています」

しかし、そんななかでも精神的に大きな支えとなったのは、父・征昭さんの時代からの常連客はもちろん、長年カプリチョーザの味を支持してきた多くの顧客からの声だったという。

「父が厨房に立っていた時代に、まだ若くしてお店に通っておられたお客様や、長きに渡って親しんでくださったお客様が、限られた営業時間の中でも『やっぱりこの味じゃなくちゃダメなんだ』とお店に来てくださいました。そこであらためて思ったことは、どんな状況でもカプリチョーザを忘れないお客様がいる、こんなにもみなさまから愛されているんだということです。本当にありがたく思いました。同時に、コロナ禍でお客様が来店しにくいのなら、新しい展開を考えるべきだと思うきっかけにもなりました。コロナ禍の制限が解除されましたが、今は従来の飲食店のスタイルに加え、物販などでのご提供にも注力するようになりました」

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