第1幕 「王子初のベンチャー魂で、3方面を開拓(ドヤー)」 

1911年のおいら。運賃は大人1区1銭だった。
1911年のおいら。運賃は大人1区1銭だった。

そうね、事の始まりから話すとすっか。今じゃあ東京都のいちょうマークつけて走ってる「都電」荒川線のおいら、もとは民間出身なのよ。お、初耳かい?

111年前、王子電気軌道(株)って社名を掲げて走り始めたの。もちろん拠点は北区王子。すぐ「王電」なんて略されてさ。

都心にはだいぶ市街電車網ができて、お次は郊外ってんで民間路線が続々延びた頃さ。今の東武さんや京急さんより後輩だが、東急や小田急よか先輩かな。

なぜ王子か? まず、渋沢栄一先生が造った製紙工場を筆頭に工業発展の芽があった。なにより江戸期以来の桜の名所・飛鳥山を擁するのどかな行楽地でよ。レジャー需要も狙ったのさ。

資金繰りには難儀したが、めでたく明治44年(1911)に最初の区間[飛鳥山〜大塚]間が開通。花電車(装飾車両)が走ったのよ。より南へは、大塚の停留場が山手線を境に長らく分断されたり苦労したが、長期戦で少しずつ早稲田まで延伸した。

王電開業を祝うアーチと花電車。初日は1500人が乗った記録が。
王電開業を祝うアーチと花電車。初日は1500人が乗った記録が。

東側は今の荒川区を貫くように、低地の極力小高い所を縫って半農村集落をつないだね。本音は常磐線まで着けたかったが叶(かな)わず、他の市電へ乗換可能な三ノ輪橋までで手を打ったんだ。

3方面目は北上ルート。もはや幻の区間だけど、王子から北本通りに沿って赤羽まで(今のJRの駅前でなく岩淵あたりな)。軍需工業で伸びゆく地域だ。

結節点の王子じゃ、地形や既存路線の難題をなんとか克服。三方の路線を接続し、「人」という字を描く全貌になったのさ。

王電発行の鳥瞰(ちょうかん)図『王子電車沿線案内』部分。王子付近には飛鳥山や名主の滝など景勝地を強調。左下に「あら川遊園」が。
王電発行の鳥瞰(ちょうかん)図『王子電車沿線案内』部分。王子付近には飛鳥山や名主の滝など景勝地を強調。左下に「あら川遊園」が。

実はサイドビジネスで電気供給もやってたぜ。近頃の新電力ベンチャーみたいに、戦前も民間会社が競って送電先を開拓してたのよ。おいらたちは王電沿線に加え、足立区や川口にも配給エリアを広げて、自前の変電所から一般家庭に電気を送ったな。ぶっちゃけ電車より送電のほうが食えてたんだけどさ(笑)。

大正に入るとあらかわ遊園や尾久温泉と新名所も増え、観光PRにもより励んでよ。あの頃はまあ、ガムシャラだったさ。

昭和2年(1927)三ノ輪橋に完成した王電ビルはモダンなコンクリート造り。
昭和2年(1927)三ノ輪橋に完成した王電ビルはモダンなコンクリート造り。
同ビルは今も国道4号に面して残る。
同ビルは今も国道4号に面して残る。

第2幕 「市電の一部に。なんとか戦禍を乗り越えた(しみじみ)」

1952年のおいら。運賃は大人10円だった。(撮影=手川文夫)
1952年のおいら。運賃は大人10円だった。(撮影=手川文夫)

日中戦争以降は、東京の交通事情にも戦争の影が落ちてきた。燃料をお上が統制するための陸上交通事業調整法って法律で、昭和17年(1942)、ついに王電は東京市電気局に統合。民間ブランドにお別れして、大所帯「市電」の一路線に衣替えよ。

ちょうど同じく東京市の管理下に置かれた「統合同期」にゃ、江戸川区を東西に走った城東電車や、杉並区は青梅街道沿いの西武鉄道新宿軌道線がいたっけ。

王電時代からの引継車に加えて市電の新造車も入り、車両もいろいろ。ややこしいことに昭和18年(1943)には東京市が東京都になって、看板もすぐ「市電」から「都電」に掛け替えた。電力削減で運行時間を繰り上げたり、物資用の貨物車を走らせたり。戦中はとにかく混乱続きの過渡期だったな。

そして終戦。ご存じのとおり、沿線一帯も下町を中心に空襲でだいぶ焼けた。都電全体では12営業所と602車両が焼失する大被害。だが、荒川車庫は戦火を免れ、おいらたちの所属車は無事だったのさ。

戦後すぐはひどい車両不足で、生き残った旧王電の古参・300形も助っ人遠征。花の銀座や日本橋、繁華街を堂々と走ったぜ。そんな、ちょっと胸アツな一コマもあったのさ。

第3幕 「都電の黄金期。忙しかったぜ……(へへへへ)」

1956年のおいら。運賃は大人13円。
1956年のおいら。運賃は大人13円。

高度成長期は都電も全盛期よ。旧王電の路線網は整理され、[荒川車庫前〜早稲田]の32系統と[三ノ輪橋〜赤羽]の27系統、2系統として親しまれたな。

戦後復旧が早かった都電の利用者は増え続け、ピークの1955年には、都電全体で1日約175万人に乗ってもらったよ。

象徴的な都民の足だけに、開都五〇〇年大東京祭に明仁皇太子ご成婚……祝い事があると都電に花電車が登場した。それにおいらたちの地元で華やかといやぁ南千住にあった東京スタジアム。別名「光の球場」に立派な照明が灯るナイター前は、三ノ輪橋へ野球ファンを運んださ。

1959年に、車体色をキャピタルクリーム色&赤帯にイメチェンすると、結構評判よくてさ。都電といえば未だにあの色のイメージが強いお客さんも多いだろうな。

1960年、「赤羽」の方向幕を掲げて王子駅前を走る7000形。
1960年、「赤羽」の方向幕を掲げて王子駅前を走る7000形。

人気者として働いてたとこへ、いよいよマイカーが急増しだした。電車軌道と自動車道路が重なる「併用区間」、今も東京以外の路面電車で見かけるが、当時の都電でもヨソの系統じゃ多かったんだ。時に1959年、東京で併用区間の軌道内へ自動車が乗り入れOKに。これが潮目よ。時代はそう、モータリゼーションってヤツさ。

昭和40年代、飛鳥山わきの明治通りをゆく6000形。公園には今なき回転展望塔が。
昭和40年代、飛鳥山わきの明治通りをゆく6000形。公園には今なき回転展望塔が。

第4幕 「仲間が次々引退。赤羽ルートも。(泣)」

1978年のおいら。運賃は大人90円。
1978年のおいら。運賃は大人90円。

自動車が軌道内に入ってから、都電はすっかり渋滞や事故の原因として邪魔者扱いよ。おかげでこっちのダイヤも遅れるしさ。世論に押され、ついに1967年の第一次撤去を皮切りに、段階的に都電を全面廃止することが決定されちまった。

恐れてたら1972年、おいらんとこで併用区間が多かった[王子駅前〜赤羽]間も撤去対象に。断腸の思いだが、泣いて廃止を見届けたよ。ここの代替交通は、今じゃ地下鉄南北線が立派にこなしてくれてるけどな。

1972年、廃止される[王子駅前~赤羽]区間お別れの花電車。
1972年、廃止される[王子駅前~赤羽]区間お別れの花電車。

東京中の都電仲間も一斉廃線、身を削がれてひとりぼっちになったおいらも腹の中じゃ覚悟したぜ。でも人生わからねえな。1973年の都議会、美濃部亮吉都知事の一声でおいらの残り区間が存続する流れになった!

理由はまず、大部分が専用軌道という点。かつての近郊農村に電車道を自由に敷いた結果、後年自動車に干渉されず走れたんだ。それに自動車優遇の反動で進んだ公害問題や、東京の歴史を残す観点もあったと思うぜ。だがなにより、沿線住民からの存続の声が熱かった――ウッ(男泣き)。

命拾いしたおいらは32系統と27系統の残りを一本化、「都電荒川線」として再出発を決めた。

同時に経営見直しの一環で進んだのが「ワンマン化」だ。明治このかた運転手と車掌さんのツーマン体制だったのを、運転手一人に絞るのさ。当然、車掌さんたち組合側は猛反発。荒川線ワンマン化3日前にギリギリ妥結し、残り2日で教習を完了して無事漕ぎつけたって話だ。

車両も合わせて改造し、対応済のは外装の赤帯を青帯に塗り替えた。ツーマン時代は前後両扉から乗降できたのを「前乗り後降り」に統一したんだから、お客さんも戸惑ったはずだよ。

1978年、所属全車両がワンマン化された荒川線に「新装記念」の花電車が並んだ(なにかっつーと花電車だが)。うれしくもあり、寂しくもあり、だったなぁ。

1978年、全面ワンマン化を祝う花電車。手前は太田道灌・山吹の里伝説が題材か。
1978年、全面ワンマン化を祝う花電車。手前は太田道灌・山吹の里伝説が題材か。

第5幕 「地元の足、しかもそれだけじゃない!(ニヤリ)」

2022年のおいら。運賃は大人170円。
2022年のおいら。運賃は大人170円。

2011年秋、荒川線に33年ぶりに花電車が走ったんだ。これは都営交通100周年のお祝いだが、たまたま王電開業からも同じく100年。運命かなぁ。

2011年、都営交通100周年を祝うケーキ型花電車に沿線が沸いた!
2011年、都営交通100周年を祝うケーキ型花電車に沿線が沸いた!

平成以降の車両は白&緑の統一カラー時代を経て、今じゃ色とりどりの新型モデルも続々投入。バリアフリー対応の進んだ公共交通として都民に愛されている、な〜んてこたぁ照れるから、自分で言わせんなよな(笑)。

ま、ようやくエコで定時性の高い路面電車のよさが見直されたのか、最近じゃ富山市のライトレールが市街を活性化させているようだし、来年には宇都宮にも新線が開業予定らしい。エールを送りたいよな。

利便性だけじゃない。一般でも車両丸ごと貸し切れるサービスは密かに人気だし、車内寄席「都電落語会」など都電を活かした企画も増えてきた。

かつて『散歩の達人』編集部も貸切車両でクイズ大会を敢行。意外にお手軽な価格で優雅な時間が♪ (撮影=オカダタカオ)
かつて『散歩の達人』編集部も貸切車両でクイズ大会を敢行。意外にお手軽な価格で優雅な時間が♪ (撮影=オカダタカオ)

お客さんがイベントに足を運んでくれたり、小旅行気分で沿線散策に使ってくれてると、なんか王電時代に飛鳥山へ花見客を運んだ原点を思い出すよ。都会のせわしいみなさんを、たまの非日常にお連れしてた頃をね。

荒川線はまだまだ粘って頑張るからよ、令和のヤングにもたくさん乗りにきてほしいぜ。一両だからインスタの画角にも収まりいいし、な〜んつってな。

都電荒川線ざっくり史

第1幕

明治

1911年 王子電気軌道(株)が[飛鳥山~大塚(大塚駅前)]間に路面電車を開業

大正

1913年 [飛鳥山下(栄町)~三ノ輪(三ノ輪橋)]間が開通

昭和

1926年 [王子柳田~神谷橋]間開通
1927年 [神谷橋~赤羽]間開通
1930年 南側は早稲田まで開通。現在の荒川線全線に当たる区間が開通

第2幕

1942年 東京市に統合され市電となる
1943年 都制が施行され都電になる

第3幕

1955年 都電全体で、利用者がピークに
1959年 併用区間で自動車の軌道内乗り入れスタート

第4幕

1967年 都心部で、都電の第一次撤去が始まる
1972年 [王子駅前~赤羽]間は廃止に
1974年 残った27系統の一部と32系統を一本化。「荒川線」と改称
1978年 全車ワンマン化

第5幕

平成

2000年 荒川一中前停留場開設
2011年 都営交通100年を記念し花電車が運行
2017年 駅ナンバリング実施

おまけ 「今出合える顔ぶれ、紹介しよう!(ジャジャン)」

見つけやすさ☆☆☆☆ 8800形 2009年導入 

まるでヨーロッパのトラム!? 近未来を予感させた外観

古風な9000形の次に現れたこのスタイリッシュ系に、地元も驚いた!? 従来車に比べて高い省エネ性で、見た目にたがわぬ実力派。沿線の風物詩・バラを思わすローズレッドほか、バイオレット・オレンジ・イエローの全4色。

見つけやすさ☆☆☆ 8900形 2015年導入

見た目はソリッド 中身はハートフル♡

「人にやさしい」をコンセプトに、室内の改良を重ねた現代型。先行する8800形はやや丸みがあるが、こちらは直線的な外見。噂では、ある号車のみにハート形の吊り手が!? 色はオレンジ・ブルー・ローズレッド・イエローの全4色。

見つけやすさ☆☆☆ 7700形 2016年導入

よみがえる! 最新鋭のハイカラモデル

クラシック風の外見ながら、導入時期は最も新しい。塗装デザインに交通局若手職員チームの思いがこもっているというこの車両、実は引退した7000形うち8両の車体が使用され新生した。みどり、あお、えんじのオトナな全3色。

引退済み 7000形

路線を支えた勤続選手、さらなる余生も!? 一部の車体が7700系にサバイブ

大元の旧7000形の初製造は1950年代とだいぶ昔。その後ワンマン化対応を経た新7000形は主力として長年活躍した。完全引退は比較的最近の2017年。白&緑やクリーム系復刻色で走る姿は記憶に新しいはず。

見つけやすさ☆☆ 8500形 1990年導入

おなじみだった白&緑も気づけばこの型だけに!

現役組では最古参だが、登場当時は28年ぶりの新造車でVVVFインバータ搭載も話題に。フォルムの滑らかさで、従来の角ばった車両と一線を画した。長らく主流だった白系とグリーンの配色も、実はもう8500形のみに。色もこの白&緑のみだ。

見つけやすさ☆ 9000形 2007年導入

タイムトリップ気分!? 気品あふれるレア車両

2000年代以降の新形ラッシュの口火を切ったレトロ調の9000形。昭和初期の市電をイメージし、車内のディテールも木目調の壁に真鍮風の手すりと実にシックだ。エンジとブルー各1両のみの運用で、乗れたらラッキー!?

取材・文=イーピャオ 写真=『王電三十年史』より(第1幕)、交通新聞クリエイト、編集部 画像提供=北区立中央図書館、東京都交通局

主要参考文献:『王子電気軌道株式会社三十年史』(王子電気軌道)、『都電荒川線に乗って』(荒川区立ふるさと文化館)、『今昔写真と路線分析 都電荒川線の全記録』(フォトパブリッシング)

『散歩の達人』2022年5月号より