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そもそも、なぜ京都に行くことになったのか。

それを説明するためには時系列を遡(さかのぼ)る必要があるが、私は中2で学校に行けなくなった。仲のよかったグループから仲間外れにされたことをきっかけに、クラス全体から無視されるようになったからだ。聞こえるように悪口を言われたり、給食の牛乳パックにストーブの上の埃をべったり付けられたりもした。

私はすっかり人間が怖くなり、中3に進級してクラス替えしてからも、教室に行くことができなかった。私は毎日、一人で相談室に登校していた。登下校時に人に会わないよう、1時間目の授業中に登校し、2時間目の授業中に帰る。しかし相談室へ入る姿を見られたのだろう、一度、ドアを開けられそうになったことがある。鍵をかけていたので開けられることはなかったが、ドアの向こうから数人の男子のふざける声が聞こえて、私は耳を塞いで震えていた。

同級生に遭遇しないよう、私はみんなが学校にいる時間しか外に出なかった。

ある日の昼間、本屋から帰る途中、同じ学校の制服を着た生徒たちの姿が見えた。通常授業の日だと思って油断していたが、午前授業だったようだ。男子生徒の一人が私に気づき、こちらを指して何かを言った。途端に視線が集まってくる。私は怖くて怖くて、家まで全速力で走って帰った。悪いことをしたわけじゃないのに、ビクビクしながら生きているのが悲しい。

高校は、同じ中学から進学する生徒がほとんどいない単位制高校を選んだ。もう、私が不登校だったことを知る人はほぼいない。人目を気にせず堂々と過ごせる……はずだった。

しかし、私は他の生徒たちの視線が怖かった。人からどう見られているのだろう。また悪口を言われたらどうしよう。学校での私は常に極度の緊張状態で、ひどい動悸と呼吸困難が続いた。

その結果、私は入学から1ヶ月も経たず登校できなくなった。

今度こそ学校に行けると思っていた私はひどく落胆した。私と同じくらい、両親も落胆していた。私は両親に申し訳なくて、家にいても肩身が狭かった。かと言って、人が怖くて外出できないから家にいるしかない。

そんな私に、両親は「しばらく京都に行ってきたら? 気晴らしになると思うよ」と提案した。京都には大学生の兄と姉がいる。大学は違うが二人ともたまたま京都に進学したため、親の意向でルームシェアしているのだ。中学生のとき、母と一緒に兄たちのマンションに行ったことがある。

京都行きに、私自身がどこまで乗り気だったかはよく覚えていない。「行く」と言ったのは私だが、空気を読んでそう言っただけかもしれない。両親が少しの間、私から解放されたがっているのを察していたから。

京都行きの当日、お金と行きの航空券と父の携帯電話を渡され、新千歳空港まで送ってもらった。

搭乗口へ向かう私に、父は笑いながら「学校に行けるようになるまで帰ってくんな!」と言った。

父は冗談で言ったのだろうが、私はその言葉が頭から離れなかった。京都に行くことで何が変わるというんだろう。環境を変えたくらいで、学校に行く自信なんてつくのだろうか。

学校に行けない私のまま札幌に帰ったら、両親はどれだけ落胆するだろう。

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一人で飛行機に乗るのは初めてだったが、意外と不安はなかった。伊丹空港に着き、兄たちと待ち合わせている駅に移動する。

兄と姉は就活帰りでスーツ姿だった。2歳違いだが、兄が浪人と留年をしたため同じ学年なのだ。

三人で焼肉バイキングに行った。三人で外食をするのは初めてだ。年齢が離れているため(兄とは8歳差、姉とは6歳差)、私が物心つく頃には二人とも部活や塾で忙しく、あまり遊んでもらえなかった。

しかし、このときは話が弾んで楽しかった。実家の外で会う兄と姉は、実家にいるときよりも「今どきの若者」っぽくて楽しい。焼肉バイキングは残すと罰金が発生するシステムだったが、私はなぜか終盤にじゃがいもをたくさん持ってきてしまい、兄に「ユアチョイス最悪~!」と笑いながら怒られた。

兄も姉も、私の不登校には触れなかった。

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その日から、私は兄と姉のマンションで過ごすようになった。兄と姉は就活やバイトが忙しくてあまり家にいない。日中を一人で過ごす私は、暇をつぶすためにひたすら京都の街を歩きまわった。

兄と姉のマンションは京都市内にあった。最寄り駅は忘れたが、たしか地下鉄の駅だった気がする。スマホのない時代、私は京都のガイドブックの地図を頼りに移動した。もちろん公共交通機関も使ったが、慣れてくると、マンションから四条・河原町のあたりまで歩くようになった。

ガイドブックに載っている京都の観光地はほぼ制覇した。観光地に行っても、お土産は買わないし、飲食店にも入らない。旅の資金には限度がある。少しでも長く旅を続けるには、なるべくお金を使わずに過ごさなければいけない。

よく行ったのは新京極だ。気になる古着屋を見つけるたびに入るので、丸一日いても飽きない。古着のTシャツにフリルを縫い付けたリメイク古着が欲しかったが我慢した。

そのほか、八坂神社や三十三間堂、清水寺など、四条から歩いていける観光地には片っ端から行った。特に神社仏閣が好きというわけではないが、他に行く場所が思いつかなかったのだ。観光地は当然ながら観光客がたくさんいた。京都に来てからというもの、私はなぜか人が多い場所のほうが落ち着いた。札幌にいたときはあんなに人が怖かったのに、京都では人が怖いとは思わなかった。

近場の神社仏閣を行き尽くした私は、ある日、銀閣寺まで足を延ばした。帰りに道に迷い、携帯電話で兄に助けを求め、落ち合って帰ってきた。兄に歩いたルートを説明すると「そんなに歩いたの!?」と驚かれた。

休みの日、姉と大阪のアメリカ村に行ったこともある。鳩にフンをかけられてTシャツが汚れてしまい、姉が当時流行っていたタイダイ柄のTシャツを買ってくれた。露店であきらかに本物じゃないハイブランドのアクセサリーを売っているおばさんがいて、「お姉ちゃん、シャネルって感じやないな、デオールやな、デオール」と、800円の『デオール』のピアスを売りつけられそうにもなった。

新京極を歩いていて、カットモデルか何かの勧誘に声をかけられたこともあった。「お姉さん、大学生?」と言われ、化粧を覚えたての私は大人に見られたことが嬉しかった。帰って兄に自慢すると、「大学生には見えないだろ」と言われてしょげた。

京都での日々は、正直言って「すごく楽しい!」というわけではない。けれど、京都の街を歩いているとき私は自由で、その解放感はなにより貴重なものだった。

札幌を歩くときはいつも、知り合いに見つからないかビクビクしていた。知り合いに遭遇しても私だとバレないよう、バケットハットを目深にかぶって顔を隠し、俯いて歩くのが癖になっていた。

京都では、決して知り合いに会うことはない。ここでは、私が不登校だと知る人はいない。

みんなが学校にいる時間に出歩いても、堂々と顔を出して歩いても、誰の目も気にしなくていい。帽子をかぶらずに、明るく染めた髪にめいっぱい太陽を浴びて歩ける。その解放感に比べたら、一人の寂しさなんて些末なものだ。

ずっと、ここでこうしていられたらいいのに。

旅の終わりが来るのが怖かった。札幌に、帰りたくなかった。

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結局、私は両親や兄・姉にせっつかれる前に自分で帰る日を決め、札幌に戻った。

札幌に帰っても、学校には行けなかった。一人旅には、学校に行けるようになる効果はないらしい。

けれど、札幌に帰った私はフリースクールに通いはじめ、小説を書くようになった。その後、単位制高校を中退し、通信制高校に再入学した。劇団に入り、バイトも始めた。

そんなふうに動き出そうと思ったきっかけは、やっぱりあの京都旅だったと思う。

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今の私は、一人の時間をあまり楽しめない。一人は寂しいし、どうしても時間を持て余してしまう。私には一人を楽しむ才能がないのかもしれない、と思う。

けれど、決してそんなことはないのだ。15歳の私は、京都であんなにも一人の時間を楽しめたのだから。

京都の街を歩く15歳の私は、今の私よりずっと勇敢で颯爽としている。そんな彼女に、伝えたい。

今の私はもう人が怖くないよ。住んでいる東京でも、たまに帰る札幌でも、顔を隠すことなく歩いているよ。

だから、大丈夫だよ。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
私にとって、赤坂はモンゴルだ。何を言ってるんだと思われただろうが、なんてことはない。赤坂にあるモンゴル料理店によく行っていたのだ。そこは知り合いのスーホさんとタカシさんがやっていたお店で、こってりした羊料理をたんと振る舞ってくれる。宴が盛り上がってくるとスーホさんが音頭を取り、お客さん全員で歌いながら馬乳酒を回し飲みしたり、指名された客同士がモンゴル相撲をとったりもする。赤坂駅に降り立つときはいつもワクワクしていて、赤坂駅から帰りの電車に乗るときはいつもフワフワしていた。お腹いっぱいで、少しさみしい。いつだって、私にとって赤坂は異国の旅先だった。
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