前田慶次の『どうする家康』徹底解説! 前田慶次の『どうする家康』徹底解説!~【第1回】家康の前半生~

2023年1月8日(日)からついに放送が始まったNHK大河ドラマ『どうする家康』。城びと読者の皆さんが余すところなくストーリーを楽しめるよう、徳川家康と同じ時代を生きた名古屋おもてなし武将隊の前田慶次様が、独断と偏見による会話劇を交えながら慶次様から見た家康の生涯”やドラマで重要になりそうなポイントを徹底紹介! 今川家の人質生活から始まった第1回放送ですが、そもそもなぜ家康は今川家に人質となっていたのか? 連載初回となる本記事では、波乱に満ちた家康の幼少期から桶狭間の戦い後の様子まで迫ります。

皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。いつも我が連載「前田慶次の自腹でお城めぐり」を読んでくれてありがとさん!

此度より特別連載を開戦致すのじゃ! その名も「前田慶次の『どうする家康』徹底解説!」。2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』を百倍楽しんでもらうべく、分かり易くドラマを視聴する上で必要な知識を儂が教えて参る!

前田慶次

【前田慶次から見た徳川家康とは】

大河ドラマの主軸を務める徳川家康様の印象であるが“苦労人”である。
徳川様は儂と同世代、戦国乱世の最中に生を受け天下人まで登り詰めるが、決して順調に事が進んだ人生ではなかった。
戦も負けるし、幼少期には親との離別、窮地も多く、政で人間関係のいざこざも目立つ。
忍耐強いという印象で済ますには波乱続き!
儂も近い経験を多くして参ったが、徳川様はどんな心境で天下統一を目指し幕府を開いたのか。
全土の領土を平らげるという革命的な考えを抱いた信長様、秀吉様をどう見ていたかも気になる。
きっと現世の皆にとっても徳川家康様の人生を知ることは、大きな経験となり得る。
そこで儂なりに委細に綴って参る!

前田慶次とは

齢四八十歳。名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に活動中。
YouTubeチャンネル「前田慶次 戦国時代チャンネル」やTikTokで歴史文化を面白おかしく大切に伝えている。
歴史研究家の小和田哲男氏や歴史タレントれきしクン等とコラボしたり歴史講演会や学校で歴史授業を精力的に行ったりしている。
NHK「さらさらサラダ」などTV番組でも、地元の歴史や史跡なども紹介している!
〇城びと(web)連載
〇名古屋城検定名誉顧問
〇日本城郭検定準1級

ちなみに名古屋おもてなし武将隊には徳川家康様もおるでな。しっかり解説せねばならぬ!

どうする家康

【徳川家康の生涯】

■壮絶な前半生
天文11年(1542)、三河国岡崎城(愛知県)で誕生。生まれてすぐに両親が離縁。織田家と今川家で人質生活を送る。
桶狭間の戦いを経て今川家から独立し織田信長と「清州同盟」を結ぶ。徳川家康と名乗る!

■信長と駆け抜ける葛藤の時期
元亀元年(1570)、姉川の戦いにて強敵、浅井・朝倉連合軍を倒す!
戦国最強の武田信玄と激突。人生において大きな敗北を経験。
信長と共に長篠・設楽原の戦いで武田軍を倒す!
然し、信長が妻と息子へ処罰を与え、家康自らの命で2人は命を落とすことに。

■戦国のカリスマ秀吉との戦い
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れる。織田家を継いだ羽柴秀吉と徳川家康は対決!
小牧・長久手の戦いにて家康は勝利を収めるが秀吉の政治的動きに敗北。秀吉の配下となる!
後の隠居の地である駿府城(静岡県)を完成させる!
天正18年(1590)天下統一戦である小田原征伐にて北条を倒し関東に移封。江戸城(東京都)入城。
異国出兵と秀吉に次ぐ巨大勢力で確実に立場を確立する!

■将軍へ。江戸幕府誕生
慶長3年(1598)、秀吉が倒れ、豊臣政権重鎮前田利家も倒れる。
家康は遂に天下を掴むために行動に移す。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにて東軍をまとめ西軍を倒し、慶長8年(1603)征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く!
将軍職をすぐ息子に譲り大御所となるが、政治には大きく関わり実質権力は家康が握った!

■徳川治世の為に大戦
秀吉の子、豊臣秀頼が成長し世は再び二分される。家康は徳川治世の為に再び大戦を仕掛ける!
慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発。豊臣勢を退け、大名を統治する為に武家界の法律である武家諸法度を定める!
元和2年(1616)、徳川と日ノ本を安泰へ導き太政大臣となり役目を果たしたかの如く家康安らかに眠る。

前田慶次の『どうする家康』徹底解説!

※連載初回は、家康様の幼少期と桶狭間の戦いについて儂、前田慶次の独断と偏見による会話劇である!

1.壮絶すぎる幼少期

天下人まで登り詰めた家康様は苦難の人生であったと結果を見れば皆感じるであろう。
そんな苦難がいつ始まったのか。何と産まれてすぐであった!!

岡崎城、龍城神社
家康出生の地・岡崎城の隣に鎮座する龍城神社

父:松平広忠 母:於大の方 家康:竹千代
天文11年(1542)家康0歳(数え年1歳。以下同)
父「於大よ、よくやった! 元気な男の子だ」
母「松平家を引っ張っていくのよ。貴方の名は竹千代!」
父「千代とは千年を意味し長生きして欲しい願いからよ」
家康「おんぎゃーおんぎゃー」

三河国を支配する松平家と水野家の娘於大の間から家康様は誕生!
手を取り合って他国に負けない国作りをしようとしていたが。

天文12年(1543)、家康誕生から1年後!!!!
水野家当主は於大の兄が務めることに。
兄「松平家よりも勢いもある織田家の方が同盟結ぶなら良くね?」
家臣一同「殿の思うがままに」

水野家は織田家と同盟を結ぶ。織田家と敵対する今川家(静岡のどえりゃー強い人)は松平家を守っていたので、
松平広忠(父)は於大(母)と離縁! 竹千代1歳にして母と生き別れに。

慶次「竹千代こと家康様、生まれて母の顔をほぼ認識できずに生き別れとは、乱世でも厳しい環境である」

不幸は続く!!
天文16年(1547)家康5歳(6歳) 織田軍が攻めてきた!

父「まずいな。今川義元様に助けてもらうしかない。タダでは今川様も動かないとなると。
竹千代、お前には今川家の人質に行ってもらう!」
家康「父上―! 拙者まだ幼稚園児ですぞぉぉぉぉぉ」

家康様を駿府(静岡)に輸送中
ガタガタ…
家康「もう着いたのか?」
(外が騒がしい。)
男1「竹千代は1000貫で買った! 織田家に送るぞ」
男2「オッケー!」
家康「儂売られた???
※100貫という話も。

なんと家康様は護送中に売られてしまい、
今川家のもとではなく敵対していた織田家の人質として護送されることに。
当時人身売買が存在しているが、一国の当主の息子が売られるとは衝撃である!
こうして家康様は織田領である現在の名古屋は熱田で人質として過ごすことになる。
この時織田信長様と出会ったとも言われる。

そして。災難はまだ続く。
天文18年(1549)家康7歳(8歳)
家康「織田家の万松寺(名古屋)に来て2年か」
家臣「竹千代様、御父上の松平広忠様が何者かに暗殺されました」
家康「父上…」
家臣「更に今川軍が織田軍を攻め織田信広様を捕らえたそうです」
織田家「竹千代、信広を救うためにそなたを今川家に送る」
家康「人質交換か…」

家康様は織田家の人質であった為に父の死に目に会う事もできなかった
人質のまま松平家当主=岡崎城主となったのである。
三河を支配したい今川家は、三河への抑えとして家康様を人質に欲しかった為、織田信広と人質交換するのであった!

慶次「NHK大河ドラマ『どうする家康』では桶狭間の戦いから展開されたで、
幼少期は描かれんが、今後台詞として登場する可能性は高いし、愛知県と静岡県は戦国時代争っていたと覚えてちょ!
また、織田家の人質生活の中で信長様と出会っておる所も重要!
ドラマで松本潤殿(家康役)と岡田准一殿(信長役)がこのことについて会話するやも?
信長様と家康様は付き合いが長く、此れが後に清州同盟と呼ばれる間柄に発展する」

2.英才教育は今川家で!?

天文19年(1550)、今川家の人質として家康様の英才教育が始まる。
祖母:源応尼
家康「駿府にやって参ったが、ゴホゴホ…(この頃家康様は病弱であった)」
祖母「大事ないか、竹千代。さぁ今日も勉強しますよ」
家康「婆様。誰もいない中、心強い…儂勉学がんばる!」
祖母「今日は太原雪斎様が教えてくださいますぞ」

今川家で家康様に教育を施したなかには、今川軍の軍師として現代にも名を馳せておる太原雪斎様もおった。

慶次「人質なのに英才教育が受けられるのはどうしてか?と思うた其方! 良き質問である。
我等の時代は人質とはいえど、無下に扱われるわけではない!
人質と同時に同盟相手でもある故に大切にされ、何不自由ない生活ができる。皆が想像する人質とはちと異なるであろう」

こうして8歳~19歳まで駿府で人質生活を送ることになった家康様。
現世では小学2年生から大学生までと考えると多感な時期である為、此処で多くの影響を受けたと考えられる。

慶次「この時分、家康様が住んだ駿府は全国的に見ても発展した都市であり、公家文化を当主・今川義元様が推進していた。
義元様の町作りと文化発展に良い意味で家康様は影響を受け後の名古屋や江戸という町作りに活かしたのかもしれん。
また、義元様が軍事を太原雪斎様に任せ、ともすれば軍事面をおざなりにしてしまったの見て、反面教師にしたやもしれん。
故に武田軍等の軍団を一挙に召し抱えた可能性も。ドラマではどう描かれるかのう。

ただ、皆に知って欲しい事は、今川義元様は『海道一の弓取り』と呼ばれ東海道で最も優れた武士でもあった。即ち、決して武勇に劣った方というわけでは御座らん。信長様に敗れた様から印象が変わってしまったのが惜しい」

3.運命を変えた桶狭間の戦い

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いが勃発!
織田軍が大大名今川義元様を倒したことで世では有名であるが、家康様にとっても重要な出来事である。

その前にまず、桶狭間の戦い以前の家康様の動きじゃ。
弘治元年(1555)元服! 義元様から「元」の一字を頂戴し「松平次郎三郎元信」と名乗る。この翌年、岡崎に里帰りを許され、父を亡くしてから初めての墓参りをする。
弘治3年(1557)元信から蔵人元康に改名。瀬名姫(築山殿)を妻に迎える。
永禄元年(1588)今川方として初陣を果たす!
永禄2年(1559)嫡男信康が生まれる

慶次「NHK大河ドラマで有村架純殿が演じる瀬名姫(築山殿)は、今川義元様の姪で名門のお姫様である! 瀬名姫16歳で家康様に輿入れ、18歳の時分に嫡男誕生! しかし実はここだけの話、夫婦仲は冷めていた!とも聞く。今後ドラマでどう描かれるのであろうな。

桶狭間の戦いは諸説よく出て参るが、織田軍約2000~3000の兵に対して今川軍25000という兵力差がありながら、織田軍は本隊今川義元の首のみ狙いに行く戦略に出て、天候が味方したこともあり、見事討ち果たした。
今川軍は大軍なれど、前線に20000を置き本陣は5000程であったと言われておる。
油断している今川軍と士気が高まった織田軍の戦いは決して大差あったものとは言えぬ。

慶次「どちらにせよ信長様の見事な作戦と行動力が結果を生んだ戦国史における重要な合戦。
今川軍として出陣した家康様は、兵糧入れ=食料補給という大切な役割を任される。
ドラマの家康様は当初「食料運ぶだけ、戦わなくてすんで楽勝楽勝」と思われておったが、実際は敵軍を突破せねばならない大変な役割。しかもいしくじれば、食料を待ちわびる味方は確実にやられる。ドラマ初戦から過酷な状況じゃ!
ここで注目すべきは、『家康様が何を思うていたのか』

家康様は大高城(愛知県)に兵糧入れをし、織田軍の鷲津丸根砦を攻め落とした。ドラマでは家臣たち三河武士の強さが描かれていたのう。
そして大高城にて休息を取り”動かない”という行動に出た。
令和2年(2020)に放送されたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』でもその場面は描かれたが、印象的だったであろう。
そしてこの後、家康様を語る上で重要な出来事がある!

□大樹寺にて自害しようとしていた!
今川軍が総崩れとなり戦場から撤退した家康様。
歴代松平家の墓前がある大樹寺へと身を寄せ自害しようとしたが、住職に説得され行動を一変!
故郷である岡崎城(今川領)に入り、独自の軍事行動を起こし今川家から独立した!

慶次「ドラマ始まりで重要となってくるのは、家康様というお方が現状に何を想い、どうしていきたいか。
何を語り行動のきっかけを示すのか。特に見逃せぬ場面がコチラの3つじゃ」

①今川家からの独立と三河国の支配
松平一族の悲願を叶えようと行動したのか。どんな目的で自害をやめて独立しようと考えたのか

②織田信長をどう見ていたか
人質時代世話になり、また隣国の者として信長様に対して何を感じていたか。なぜ同盟までいくのか。

③家臣との対話
家康様を支え続けた側近はこの時分から、共に戦っている。
世で有名な徳川四天王の一角・酒井忠次との関係性も気になる。
徳川十六神将と呼ばれし優秀な家臣も多く、家臣の意見も大切にする場面も多かろう。
また、桶狭間の戦いでは多くの三河兵が戦場で倒れる。この時家康様は何を想うのか。

如何であったか。
ここまで伝えたのは、描かれていない幼少期と起点となった桶狭間の戦いである。
ドラマの見所は「歴史的史実の点と点の穴埋め」と儂は思うておる。
人間が行動に移す時には、必ず感情が伴う。
史実に見られる「事実」を、脚本家を始めスタッフ陣営と演者の方々がどう解釈し、人物の気持ちをどう代弁するか。
儂も一視聴者として楽しむし、このように連載や解説動画にてより多くの者に歴史文化を楽しんでもらえるよう尽力致す!

次回は家康様の青年期を中心にお届け致す!

次回の記事も楽しみにしてちょ!

以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益

凸伝令

執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

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