波乱万丈!若かりし徳川家康が直面した<三大危機>「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」

NHK大河ドラマでますます注目を集めている戦国大名・徳川家康。わずか6歳で人質となり、織田信長や武田信玄、豊臣秀吉らとの駆け引きを経て江戸幕府をひらき、のちに260年余りも続く平和な時代の礎を築いた75歳までの波乱万丈の人生。その中でも、とくに22歳から41歳の間に直面した三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、伊賀越えは、「徳川家康三大危機」と呼ばれるほどに大変な苦難だったとされています。その「三大危機」の経緯を、ゆかりのお城や史跡とともにご紹介します。※年齢は数え年です。

桶狭間の戦いから三河一向一揆まで

永禄3年(1560)、駿河国(静岡県東部)の戦国大名・今川義元が尾張国(愛知県西部)に侵攻すると、織田信長との桶狭間の戦いで命を落とします。これを機に、今川軍に属していた松平元康(のちの徳川家康)は、次第に今川家から離反する動きを見せ、戦国大名として独立していきます。そして家康は三河国(愛知県東部)の平定に乗り出します。

順調に進むかと思われた三河国の平定でしたが、思いがけず大きな試練が訪れます。

石山本願寺推定地
大阪城公園内に立つ「石山本願寺推定地」の石碑

この頃、阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生できると説いた一向宗(浄土真宗本願寺派)が大流行しました。一向宗は石山(大坂)の本願寺を頂点とし、近畿や東海、北陸地方を中心にして広まり、戦国大名に匹敵する力をもっていました。

長享2年(1488)に加賀国(石川県南部)で起こった加賀一向一揆では、一向宗の門徒が国人(地方在住の武士)と手を結んで守護の富樫政親を倒し、約90年にわたって加賀国を支配するほどでした。

浄土真宗の勢力が強い地域では、寺院や道場を中心にして「寺内町」が形成され、地域領主から不入権(治外法権と諸役免除)を認められる特権を与えられていました。

この状況は、家康が平定しようとしていた三河国も例外ではなかったのです。

三大危機1 三河一向一揆(家康22歳)

永禄6年(1563)、寺院に認められていた不入権を、家康の家臣が侵害したとされています。これを機に、三河国の有力寺院は領主である家康と敵対することになります。

とくに「三河三カ寺」と呼ばれる本證寺(愛知県安城市)、上宮寺(じょうぐうじ。岡崎市)、勝鬘寺(しょうまんじ。岡崎市)、さらに本願寺宗主が住持を兼帯した本宗寺(岡崎市)が、家康に立ちはだかりました。

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三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりとして戦死した夏目吉信の石碑(静岡県浜松市)。三河一向一揆では家康と敵対した

三河一向一揆は、家康と一向宗の争いにとどまらず、一向宗の門徒に家康の家臣も多くいたことから、家康の家臣団を二分するほど大規模な争いになりました。松平氏一門の一部のほか、のちに家康の元で活躍する本多正信や渡辺守綱、夏目吉信などの武将たちも、家康は敵に回すことになったのです。彼らは三河一向一揆の後、許されて家康の元で働くことになります(本多正信は一度追放)。

永禄6年(1563)末から同7年(1564)3月頃まで戦いは続いた末に、家康はようやく一向一揆を鎮圧。家康は難局を乗り越えて、一向宗の寺院を破却しました。

家康が三河一向一揆を鎮圧してから6年後、元亀元年(1570)には一向一揆の頂点にある石山(大坂)本願寺が織田信長に対して挙兵。信長を厳しい状況に追い込んだ戦いは、10年間も続きました。

一向宗の強さの要因として、強力なネットワークの存在が考えられています。一向宗の門徒には農民のほか、商人や運輸業者、手工業者などもいたため、一向宗のネットワークは全国に張りめぐらされていました。このネットワークを利用して、門徒や物資を移動できたことで、一向宗は戦国大名に匹敵するような力をもてたのです。


三大危機2 三方ヶ原の戦い(家康31歳)

三河一向一揆を収束させた家康は西三河を制圧し、翌年の永禄8年(1565)には東三河も制圧して、三河国の平定を実現します。永禄10年(1567)には、織田信長の娘・徳姫と家康の嫡男・信康の婚姻が行われ、信長との関係を強化。さらに、家康は永禄12年(1569)に甲斐国(山梨県)の武田信玄と同盟を結び(時期には諸説あり)、今川氏が支配する遠江国(静岡県西部)に侵攻します。

しかし、この家康と信玄の同盟関係は長くは続きませんでした。両者の状況が変化すると、元亀元年(1570)に家康は信玄の宿敵である越後国(新潟県)の上杉輝虎(のちの上杉謙信)と同盟を結び、信玄との同盟を破棄します。すると、信玄は遠江国に侵攻し、家康との戦いは避けられない状況になりました。

浜松城天守閣、三方原台地
浜松城天守閣の展望室から三方原台地(北向き)を望む

この頃家康は、飯尾氏の居城であった引間城(曳馬城)を改修し、地名を「浜松」と改めて居城としました。引間城は現在の浜松城(静岡県浜松市)天守閣から北東約500m、元城町東照宮の敷地にあったとされています。

▼浜松城については、以下の記事もご参照ください。

元亀3年(1572)10月、甲府を発った武田軍は遠江国へ侵攻し、同年12月に浜松城の北側に広がる三方原へ到達。浜松城を素通りしようとする武田軍に対して、徳川軍は背後から迫りましたが、武田軍の反撃により総崩れとなって浜松城に退却します。この三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりとして命を落としたのが、三河一向一揆で家康と争った夏目吉信でした。

信玄は浜松城を無理に攻めようとはせず、浜松城から北北西に約15㎞の位置にある刑部(おさかべ)城(静岡県浜松市)で年を越し、引き続き三河国へと進軍しました。しかし翌年の元亀4年(1574)4月に信玄が病没し、何とか家康は危機を乗り越えることができました。

浜松城天守閣
浜松城天守閣。家康が在城した頃は土造りの城だったと考えられている

ただし、信玄の死後、家康にとって一気に事態が好転したわけではなく、信玄の跡を継いだ武田勝頼との争いが続きます。勝頼は遠江国に侵攻して、家康が押さえていた高天神城(静岡県掛川市)を攻略。高天神城は、家康の本拠である浜松城から東にわずか約35㎞の距離にあり、家康は厳しい状況に追い込まれました。

▼高天神城については、以下の記事もご参照ください。

高天神城、大河内幽閉の石風呂
高天神城にある「大河内幽閉の石風呂(石窟)」。高天神城の落城によって、徳川軍の武将、大河内政局(おおこうちまさちか)が武田軍によって閉じ込められ、徳川軍の奪還後に救出された

形勢が大きく変わったのは、天正3年(1575)でした。勝頼との戦いに備えて、信長が家康に兵糧を送り、さらに岐阜城(岐阜県岐阜市)を出て家康と合流。長篠城(愛知県新城市)の西側に位置する設楽原(したらがはら)で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突し、織田・徳川連合軍が勝利しました(長篠の戦い)。

▼長篠城については、以下の記事もご参照ください。

この長篠の戦い以降も、家康と勝頼の争いは続きますが、天正10年(1582)2月に織田軍とともに甲斐国を攻めると、ついに勝頼が自刃して武田家は滅亡しました。

難敵の武田家を滅ぼしてひと安心。そのはずが、またしても家康に危機が訪れます。しかも、命すら脅かされる窮地に家康は立たされるのです。

▼三方ヶ原の戦いや長篠の戦については、以下の記事もご参照ください。

三大危機3 伊賀越え(家康41歳)

武田家が滅びてからわずか約3ヵ月後の天正10年(1582)6月2日、本能寺の変によって信長が命を落とすという緊急事態が起きました。

この時、家康は堺(大阪府)を発って京都に向かう途中でした。というのも、この直前に家康は信長に招待されて、安土城(滋賀県近江八幡市)でもてなしを受けました。その後、信長のすすめによって家康は堺を見物していたのです。

▼安土城については、以下の記事もご参照ください。


飯盛山城
西麓から望む飯盛山(飯盛山城)。このように家康も見たのだろうか?

本能寺の変を知った時、家康は河内国(大阪府南東部)の飯盛山(大阪府大東市・四條畷市)の西麓にいたとされています。信長が亡くなったため、信長と関係が深かった家康も命を狙われる立場になりました。この時、家康の供回りはわずかであり、旅行者の装いであったため到底戦えるような状況ではありませんでした。

ここから三河国まで命懸けの逃走が始まります。明智光秀の軍勢だけでなく、山賊らによる落ち武者狩りにも備えなければなりません。実際に、家康と堺まで同行していた武将・穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、宇治田原(京都府宇治田原町)付近で、土民一揆に襲われて命を落としました。

家康一行がどのようにして三河国へ帰還したのかは、日数もルートも明確にわかっていません。宇治田原から近江国信楽(滋賀県甲賀郡信楽町)を通り、甲賀南部から伊賀の北部へと「伊賀越え」をして、柘植村(三重県阿山郡伊賀町)、加太(かぶと)峠、関宿(三重県関町)、亀山(三重県亀山市)を経て、白子浜(三重県鈴鹿市)から舟で三河国に帰還したと考えられています(諸説あり)。

これは後に、「神君伊賀越え」や「神君伊賀甲賀越え」とも呼ばれるようになります。

江戸城、百人番所
江戸城の百人番所。大手門から大手三の門を抜けた位置に設けられた検問所。伊賀組や甲賀組、根来組、廿五騎組の4組が交代で詰めた

伊賀越えの際、家康と同行した顔ぶれについてもよくわかっていませんが、伊賀国や近江国甲賀郡の忍び(伊賀衆・甲賀衆)が家康を守ったと考えられています。のちに伊賀衆・甲賀衆は、伊賀組・甲賀組として江戸城の百人番所に配置されて警備に当たりました。

伊賀越えは、家康にとって命を懸けた危機であった一方で、新たな人材を確保する機会にもなったのです。

その後も家康は、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦い、大坂城包囲網の構築、大坂の陣と、次から次へと難題に直面していきます。それでも生き抜いて、天下人にのし上がった背景には、若かりし頃に乗り越えた「三大危機」の経験が生きているのかも知れません。


参考文献
藤井讓治『日本史リブレット046 徳川家康』(山川出版社、2021年)
平山優『新説家康と三方原合戦』(NHK出版、2022年)
池上裕子『織豊政権と江戸幕府(講談社、2002年)
山田雄司『忍者の歴史』(KADOKAWA、2016年)

藪内成基,城びと
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
国内・海外で1000超の城を訪ね、「城」をテーマに執筆・ガイド。著書『講談社ポケット百科シリーズ 日本の城200』(講談社、2021年)。『小学館版 学習まんが日本の歴史 6~8巻』(小学館、2022年)、『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング、2020年)などで執筆。日本お城サロン(まいまい京都主催)を運営する。

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