ヤクルト土橋勝征などを名手に育成。八重樫幸雄が見た水谷新太郎コーチの熱血指導

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

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【池山隆寛の台頭で出番を失った】

――今回も、広岡達朗監督時代のV1戦士・水谷新太郎さんについて伺います。広岡さん時代に台頭した水谷さんは1980年代半ばまで、ヤクルトのレギュラーショートでした。

八重樫 守備に関しては、ある程度完成したのかもしれないですね。ただ、僕らキャッチャーからしたら、水谷の守備には不満もありましたよ。

――どういう点が不満だったんですか?

八重樫 狙い通りに打ち取って「ゲッツーだ」と思ったのに、セカンドに走ってくる一塁走者に水谷が吹っ飛ばされてゲッツーが成立しない、なんてことがよくありましたから。だから、ランナーと交錯しないように、外野寄りにバックステップして一塁に送球するんだけど、肩が強くないからファーストはセーフになる。僕からしたら、水谷の守備には手放しで「100点満点です」とは言えないかな。ただ、ゴロの処理はとても上手でしたよ。1984(昭和59)年にはショートとして、当時の最高守備率も記録していますからね。

引退後、野村克也(左)が指揮を執ったヤクルトなどでコーチを務めた水谷(右:背番号85)引退後、野村克也(左)が指揮を執ったヤクルトなどでコーチを務めた水谷(右:背番号85)この記事に関連する写真を見る――広岡さんがチームを去った後でも、前回お話していたように「練習の虫」という点は変わらなかったんですか?

八重樫 現役を引退するまで、その点はずっと変わらなかったですね。ただ、1980年代中盤から池山(隆寛)が台頭してきたでしょう。関根(潤三)監督は池山を積極的に起用したし、水谷の出番はだんだん減っていった。それは不満だったんじゃないのかな? 当時、ヘッドコーチだった安藤(統男)さんがフォローすればよかったのかもしれないけど、あの頃は池山、広沢(克己)のことを「チーム一丸になって育てよう」という時代でしたから。

――確かに、関根さんが監督に就任した1987年、水谷さんの出場機会はゼロですね。ウィキペディアなどによると、当時、足の故障に悩んでいた水谷さんが、その痛みを口にしたら関根監督の耳に入って、逆鱗に触れたと書かれていますが......。

八重樫 それが本当のことなのかはわからないけど、チームにとって世代交代は必要だし、池山の才能も光っていたのは大きかったと思いますよ。たぶん、事実だったとしても若い選手を積極的に使いたかった関根さんの口実だったんじゃないのかな? 水谷としては「まだまだやれる」「もっとやりたい」という思いが強かったでしょうね。

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