斎藤佑樹「大学で最強のメンバーをつくりたかった」 早実優勝メンバーの退部劇に「冷静でいられなかった」

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第25回

 大学に入学してすぐの春季リーグ、斎藤佑樹は1年生ながら異例の開幕投手を務め、優勝を決めた早慶戦では勝利投手となった。33年ぶりの日本一に輝いた大学選手権では史上初の1年生でのMVPを獲得し、さらには7月に行なわれた日米大学野球選手権大会で日本代表にも選ばれ、1年生史上初の勝利投手となる。1年生としてはこれ以上ない存在感を示した斎藤だったが、じつはこの時期、夏の甲子園で優勝した早実の仲間たちが次々と早大野球部を退部していた。

斎藤佑樹(写真右)ともに最後まで野球部に残った早実優勝メンバーのひとり白川英聖(写真左)斎藤佑樹(写真右)ともに最後まで野球部に残った早実優勝メンバーのひとり白川英聖(写真左)この記事に関連する写真を見る

【次々と退部する早実優勝メンバー】

 早実で優勝した同学年のレギュラーはみんな、早稲田大学へ進んで野球部に入ったんですが、1年の時に何人も辞めてしまいました。春のリーグ戦が始まる前に辞めた人もいたし、小柳(竜巳)は入学式の日に退部、檜垣(皓次朗)はいつだったかな......神田(雄二)は春の早慶戦の時にはいましたね。春、夏、秋まで頑張った船橋(悠)も1年の冬には辞めてしまいます。

 結局、最後まで残ったのはキャッチャーの白川(英聖)と早実でキャプテンだった後藤(貴司)、タイ(佐藤泰)と僕の4人だけでした。

 タイは高校時代、メンバー外でした。でも大学4年の時には代走要員でメンバーに入って、リーグ戦にも出場しました。思えばタイが早実へ入学してきた時、タイは絶対にレギュラーになると思っていたんです。

 肩も強くて足も速い。実際、春のセンバツではベンチに入っていた(背番号16)んですが、夏はメンバーから外れてしまって、でも大学では自信のある足で勝負するんだと言って、ずっと盗塁の練習をしていました。その努力が最後、4年になって報われたんですよね。

 実際、辞めた彼らの身になってみなければ本当のことはわかりませんから、僕が軽々に何かを言うのは難しいんですが、ただ傍から見ていてつらそうだなと思ったことは何度もありました。

 当時の早稲田はけっこう上下関係も厳しくて、ルールもいっぱいあったんです。それを嫌だと思ってしまったのかもしれません。リーグ戦に出られるわけでもなく、土のグラウンドを整備してばかりの毎日で、そんなことをやってる時間があるんだったらほかのことをやろうと思っても無理はないし、みんながプロ野球を目指していたわけではない。たしかにみんな、その後は野球とは違う道で頑張っていますから、当時の選択はそれぞれにとってはよかったのかもしれません。

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