【平成球界裏面史 近鉄編32】平成26年(2014年)を最後に近鉄「いてまえ打線」の4番サード・中村紀洋はNPBの舞台から姿を消した。1991年ドラフトで近鉄に4位指名されて以来、プロの世界で23年にわたり球界に貢献してきた。

三塁打で爆走する坂口智隆(2008年4月)
三塁打で爆走する坂口智隆(2008年4月)

 日米6球団を渡り歩き2106安打、404本塁打、1351打点という数字を積み重ねた。球界の功労者として華々しく送り出されて十分な実績を持ちながら、DeNAのユニホームを最後に中村は静かにNPBの舞台ではバットを置いた。

 近鉄バファローズが消滅してから10年の歳月が経過していた。もし、近鉄球団が存続していれば…。「いてまえ打線」の伝道者として、指導者の道を歩んでいたかもしれない。

 中村監督、礒部公一打撃コーチ、岩隈久志投手コーチ、タフィー・ローズ海外スカウト…。そんな夢もあったかもしれない。たらればを論じても意味はないが、そんな想像をした近鉄ファンは少なくないはずだ。

ファンにサインする岩隈久志(2012年2月)
ファンにサインする岩隈久志(2012年2月)

 ただ、中村一人が近鉄バファローズを背負っていたわけというわけではない。帰る家を無くした猛牛戦士の中でも、この時期に最も輝いていた近鉄OBはエース・岩隈だ。14年の岩隈はマリナーズで15勝を挙げ堂々、メジャーの舞台で奮投していた。

 中村と岩隈は04年、近鉄オリックス合併騒動の最中、アテネ五輪での銅メダル獲得に貢献した投打の両輪。01年にパ・リーグ優勝に輝いた近鉄がその後も旋風を巻き起こした可能性だったあったはずだ。

 球団消滅時の球団代表だった故足高圭亮氏は当時、「もうあれから10年。最後まで面倒を見れなくてホンマに申し訳ない。僕は近くで見ることはできんから、取材の機会がある皆さんには、くれぐれもええように書いてやってもらえるように宜しくお願いします」と話していたことが印象に残っている。

近鉄・足高圭亮球団代表と岩隈(2004年12月)
近鉄・足高圭亮球団代表と岩隈(2004年12月)

 平成27年(2015年)、近鉄の野手の主力・中村の姿はグラウンドにはなかった。だが、04年の消滅時、一軍に定着すらしていなかった若き猛牛戦士がオリックスバファローズで存在感を示していた。02年、近鉄ドラフト1位の坂口智隆だ。合併球団オリックスでは08年から頭角を現し不動の1番打者として活躍した。

 坂口は「僕からすると近鉄のユニホームを着ていた期間は2年間。先輩たちから比べると本当に短い期間ではあります。それでも近鉄という球団の雰囲気というのは当然、ずっと覚えています。当時はセンターの大村(直之)さんに勝たないといけない立場でしたけど、そんなの比べてももらえない存在でした。主力のノリさん、礒部さんともほぼ、話せるような立場じゃなかったですからね」と振り返る。

 だが、時代というものは確実に変わる。坂口は09年、オリックスで自身初の大台、打率3割1分7厘を記録。この年、ソフトバンクからトレードで移籍してきていた前出の大村(規定打席をクリアし打率2割9分1厘)から中堅のレギュラーを完全に奪った。

近鉄時代のノリ(左)と礒部(2004年9月)
近鉄時代のノリ(左)と礒部(2004年9月)

 けれども、近鉄の名を背負う新たな世代が台頭するも長年に渡り万全というわけではなかった。帰る家を無くした猛牛戦士には“外様”特有の試練が付いてまわった。