“令和の怪物”はいかにして生まれたのか。ロッテからドラフト1位指名された佐々木朗希投手(18=大船渡)は今春行われたU18高校日本代表合宿で高校生歴代最速となる163キロを記録し一躍、世代ナンバーワン投手に名乗りを上げたが、高校入学以前についてはこれまであまり語られていない。佐々木はいったいどんな成長をたどり、世代を代表する投手になったのか。中学時代の恩師が怪物誕生前夜を明かした。

「震災のあった年ですかね、被災した高田から朗希が転校してきたのは。私の下の息子が6年生のとき、たまたま見に行った試合で当時4年生の朗希が投げていた。身長はまだ4年生の中では大きい方というくらいでしたが、いい球を投げるなというのが第一印象。活発な子で、目立ちたがりというタイプでこそなかったが、野球に関しては俺が俺がというところがあった」

 オール気仙で中学時代の佐々木を指導した布田貢氏と佐々木の出会いは、東日本大震災直後の2011年にさかのぼる。当時は好投手ながら突出した存在ではなかった一方で、人一倍強いこだわりも持ち合わせてもいたという。

「朗希が中学3年のとき、函館で開かれた東日本大会で埼玉の強豪と当たりましてね。当時はクローザーで投げさせることが多かったが、そんな余裕のある相手でもない。ここはイチかバチか、朗希をぶつけて勝ちにいこうと先発させたが、めった打ちに遭ってしまった。他の子にも経験をさせようと『朗希、この回でもう終わりだ』『もう仕方ないべ』と再三伝えたんですが、『まだ投げたい』の一点張り。岩手の決勝で投げずに負けた試合はテレビで見ていましたが、あの時と全く同じ表情。納得していない、勝ち気で負けず嫌いなところはあのころと変わってないですね」

 勝負への強いこだわりを表すエピソードは他にもある。佐々木がオール気仙に来た当初、布田氏は自身が率いる末崎中の野球部と練習試合を組ませた。実力的にはオール気仙が圧倒していたが、末崎中の選手は布田氏のある作戦で佐々木に5連打を浴びせた。

「当時から球速に自信があった朗希が、真っすぐしか投げてこないことはわかっていた。終わった後『なんで打たれたかわかるか?』と聞いても、『わかりません』と。『野球は直球だけじゃない、一球でも変化球を見せれば違うんだぞ』と言って聞かせた。野球に関してはとにかく気の強い子でした」

 佐々木を語るうえで避けて通れないのは、左足を高々と上げる特徴的なフォーム。類いまれな柔軟性のなせる業だが、これも天性のものではない。オール気仙入団前、大船渡一中時代の指導者・志田一茂氏は佐々木が腰の疲労骨折を起こす直前の中学2年時をこう振り返る。

「学校の体力テストで、ハンドボール投げや50メートル走ではずばぬけた成績を出していましたが、体はむしろ一般的な子よりも硬かった。腰をけがした中2の終わりに私も転勤で大船渡一中を離れたのですが、試合に出られないのがよほどつらかったのか、医師から柔軟の重要さを聞いて毎日練習の前後と自宅とでストレッチに数時間は費やしていた。次に会ったのは高校入学前でしたが、そのときには長座体前屈でも開脚でも、べったりと体が床につくまでになっていて。柔軟に関しては彼の努力。つらい思いをした分、けがに対する意識は人一倍強い子なんです」

 世間のイメージとは対照的な、勝負に対する強いこだわりと努力で身に付けた柔軟性。怪物がプロで見せる表情は、想像よりもずっと多彩なものになるに違いない。