かつての寺子屋密集地 !?商人の町・日本橋界隈の教育事情

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かつての寺子屋密集地 !?商人の町・日本橋界隈の教育事情

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日野京子

エデュケーショナルライター

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江戸時代、五街道の起点として栄えた面影の残る日本橋界隈ですが、実はかつて寺子屋も多く存在していたことが分かっています。隠れ「文教地区」としての面も持っていたその理由について、エデュケーショナルライターの日野京子さんが解説します。

 徳川家康が江戸に幕府を開いて以降、日本の政治の中心都市となり明治維新以降は名実ともに日本の首都となった東京。観光目的の外国人ツアー観光客の受け入れも再開し、久しぶりに東京観光を楽しむ外国人観光客の姿を見かける機会も増えてきそうです。
 さて、世界有数の国際都市である東京には数多くの人気エリアが点在しています。しかし、現在の東京都内の繁華街の代表格である新宿や池袋、渋谷は江戸時代は郊外扱いでした。

 家康が江戸を拠点とした当時から「繁華街」の一つであったのが「日本橋」です。現在の石造アーチの日本橋は1911(明治44)年に架けられました。その優美な姿は首都高速によって隠れてしまいましたが、日本橋川に架かる日本橋周辺エリアになります。

石造アーチの日本橋(画像:photo AC)



 日本で最も有名な橋の一つである日本橋が最初に架けられたのは江戸幕府誕生の1603(慶長8)年にさかのぼります。その翌年には東海道・甲州街道・奥州街道・日光街道・中山道の五街道の起点となることが定められました。

江戸初期から栄えた日本橋エリア

 運河により日本橋界隈は町人が集まり、商人の街として発展していきます。百年以上続く老舗も多く、江戸時代から日本橋で呉服屋を営んでいた歴史を持つ三越日本橋本館はその代表格です。

三越日本橋本館(画像:photo AC)

 また、江戸時代から明治時代になってからは、商業の中心地だけでなく金融街として日本経済の中心エリアになりました。日本橋兜町にある東京証券取引所や、日本銀行本店のある日本橋本石町も町名に日本橋がついています。

日本橋兜町にある東京取引証券所(画像:photo AC)
日本橋本石町にある日本銀行本店(画像:photo AC)

 日本橋エリアは戦時中の空襲から免れた日本銀行本店、三越日本橋本店、高島屋日本橋店そして日本橋のように明治から昭和初期に建築された国の重要文化財も多くあります。街並みから江戸時代の雰囲気を感じることはなかなか難しいものですが、戦災で戦前の貴重な建物が焼失した東京都内のなかでも、明治維新以降の近代化へと進んだ時代を感じられる貴重なエリアです。 

 ちなみに「日本橋」の名がつく町名は21ありますが、それに現在の八重洲一丁目を加えた地域は1878(明治11)年から1947(昭和22)年にかけて存在した日本橋区にあたります。

 江戸初期から栄えている長い歴史を誇る日本橋エリアは、周知のように商業施設や金融のイメージが強いです。しかし、かつては寺子屋密集地でもありました。

町人の街であり寺子屋密集地でもあった日本橋界隈

 1892(明治25)年に敢行された「維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書」に、当時の東京市内にある私立小学校の住所や開校年が記載されています。私立小学校といっても、開校年は全て江戸時代です。いわゆる寺子屋や私塾にあたります。

 その中でも日本橋区内には最も多い22校が存在していました。

 一番古い学校は元文年間(1736-1741)の開校です。取調書が敢行された当時、すでに150年の歴史を持つ伝統ある教育施設があったことを意味しています。生徒数も183人と大所帯ですが、日本橋界隈にはこの他にも百人超の生徒数を誇る私立学校があり、寺子屋文化が色濃く残っていたことが伺えます。

 1872(明治5)年に学制が公布されてから日本では近代的な学校制度がスタートしましたが、それから20年経った時点でも中心街でもある日本橋に江戸の名残りともいえる教育施設が健在していたことになります。

 寺子屋というと、習字やそろばんといった町人の子どもたちの基礎学力を教える場所です。江戸時代の庶民の識字率は高いことは知られていますが、江戸時代も商い事をするには契約書の作成や計算等は必須のスキルでした。そのため「江戸随一の町人の街」であった日本橋界隈での需要が高かったのだと推測されます。

江戸時代の私立小学校(画像:photo AC)



 このように寺子屋が多数あった日本橋ですが、現在このエリアで知られている教育施設といえば公立小中学校や完全私立中高一貫校の開智日本橋学園にとどまり、大学のキャンパスのような施設はありません。

商業と経済に特化した街へ

 日本橋は町人の街として栄え、明治以降は経済や金融の中心地として名を馳せています。公教育の制度が浸透していくに伴い、子どもたちが通っていた寺子屋の需要も激減し消滅していきます。

 私塾の中には福沢諭吉の蘭学塾が慶応義塾大学となったケースもありますが、寺子屋の多くは時代の変化の中で姿を消していきました。

 江戸時代から幕末、そして明治の中頃までは子どもたちの集まる寺子屋が点在していた日本橋も、近代化の波に逆らえなかったのです。江戸幕府が開府した当初より物流の重要拠点であり町人の街という性格が強く、明治維新を契機に商業や経済に特化した街へと変貌を遂げ現在に至ります。

 かつては寺子屋が数多く存在する「文教地区」という側面もあった日本橋。今ではその原形を止めてはいませんが、町人の子どもたちが騒ぎながら寺子屋に通い学んでいた街でもあったのです。

参照
維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書(42ページ目)

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