2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。プロ野球部門の第5位は、こちら!(初公開日 2023年12月30日/肩書などはすべて当時)。
今年も多くのプロ野球選手が「戦力外通告」を受け、ユニフォームを脱ぐ決断を下した――。そんな元プロ野球選手の「その後」を描いた書籍『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(著:松永多佳倫/KADOKAWA)から、巨人・近鉄でプレーした松谷竜二郎氏のエピソードを抜粋して紹介する。野球一筋だった“33歳のオールドルーキー“は、未経験の建築業界でどうやって社長まで上り詰めたのか【全2回の1回目/後編へ続く】。松谷竜二郎(まつたに・りゅうじろう)
1964年7月10日生まれ。大阪府出身。大阪市立高校(現大阪府立いちりつ高校)卒業後、大阪ガス野球部に入部し、3年連続で都市対抗に出場するなど社会人野球で活躍。88年巨人にドラフト2位で入団。91年に21試合に登板し、完投勝利を含む2勝を記録。97年に引退後は建築業界に転職。現在はスチールエンジ株式会社の代表取締役。
※以下、書籍の一部を抜粋。
驚異的な数字を残す巨人投手陣の中で…
プロ5年目の93年に肩を痛め、その春先から出遅れるようになった。
もともと肘が悪いうえに肩まで痛め、調整が思うようにできず、95年3月に近鉄へ移籍。新天地に移っても肩の痛みが引かず、春先は2カ月遅れて、次の年は3カ月遅れていき、最終年は一試合も投げられずに97年オフに戦力外通告を受ける。
大阪ガスから即戦力ピッチャーとしてルーキーイヤーはキャンプから結果を残し、大いに期待されたはずが、最後は尻つぼみになった形でひっそりと野球を辞めることとなる。
在籍年数9年間で、プロ通算59試合、4勝5敗1セーブ、防御率5.06の成績で終わった。
近鉄から戦力外通告となった松谷は、横浜ベイスターズのテストを受けることになった。
イースタン史上初の2度のノーヒットノーランの対戦相手が当時の大洋だったこともあって、関係者を通じてテストを受ける算段となる。
しかし、いつも強気の松谷の顔に陰りが漂った。「いけるやろかぁ……」肩の症状がまったくというほど治ってなかったからだ。近鉄最後の年に、試しにスピードガンで測ってもらうとストレートが120キロ台しか出なかった。まあ、変化球があるからどうにかなるかと思い、2日間のテストのうち初日は普通に投げられた。しかし2日目は球場には行ったものの肩が上がらず「投げられません」と関係者に言うしかなく、無残にもテストは終わった。
横須賀スタジアムから車で横浜横須賀道路を走ると、緑に囲まれた景色が静かに流れていく。普通にハンドルを切るのにも痛みが走り「これで終わりやな」と感慨深く思いながら車を停め携帯を手にした。巨人の二軍時代に監督だった末次利光(元巨人)に電話をし、用件を端的に言う。
「近鉄をクビになり横浜のテストを受けたんですが無理だったので、何かスカウトかスコアラーといったフロントのお仕事を紹介していただけないでしょうか」
藁にもすがる思いで頼んだ。
末次はウンウンと合いの手を入れながら聞いている。
「わかった、ちょっと待っとけ。また連絡する」とだけ言って電話を切られた。
松谷は期待して電話を待っていたが、一向にかかってこない。
「まあ、この時期だし難しいやろうな……」と半ば諦めかけていたときだ。
暮れも差し迫ったクリスマス前に、末次から電話がかかってきた。
「台湾に行ってテスト受けに行って来い」
「明日、新宿来てくれるか!」
飯でも食いながら野球関連の仕事について何かしらの話をするのだろうと思い、松谷は一年の垢を落とす気持ちで待ち合わせ場所に向かった。場所は、新宿プリンスホテル内の中華料理店。そこには、末次と見知らぬ中年のおっさんがいる。台湾統一ライオンズの渉外担当だった。
末次は単刀直入に言う。
「おまえ、来年早々、台湾に行ってテスト受けに行って来い」
藪から棒に何を言うかと思い、松谷は一瞬固まった。
「末次さん、ちょっと待ってください。この間も話しましたが肩が痛くて投げられない状態です。箸を持つのも痛いくらいですよ」
「大丈夫や。ちょちょっと行って放ってくればいいから」
いやいや、その辺の公園でキャッチボールするのと訳が違うし、まず肩が痛くて投げられないって言ってるのに……。でも末次も良かれとしていることだし、これ以上何か言っても仕方がないと思い、素直に言うことを聞いた。
年が明け、松谷はなんとか自身を奮い立たせ、台湾でテストを受ける以上は万全な体調に戻さないといけないと考え、自費で福岡の病院に行った。リハビリをするために入院し、懸命に肩の治療にあたる。退院後、明らかに肩の状態は少し良くなり、台湾に渡った。テストは二週間弱。巨人二軍時代にピッチングコーチで世話になった高橋一三が台湾に臨時コーチに来ており、相談した。
「実は、肩が全然ダメなんです。これで台湾で野球できますか?」
「抑えだったらイケるかもわからんな」
2日に一回はゲーム方式で投げさせられ、真っ直ぐ、変化球、チェンジアップと騙し騙しでずっと無失点に抑えた。10日目あたりになると肩が悲鳴をあげた。高橋一三が松谷を見つけるやいなや「もう、おまえ帰れ」と言う。
無失点で抑えていただけに、突然すぎて意味がわからなかった。
「え!? 僕抑えてますよ」
「いや、助っ人は140キロ以上の球を投げるやつじゃないとあかん」
台湾に来ている以上、日本人の俺は助っ人なんだとあらためて再認識した。助っ人は圧倒的な力が必要だ。
「わかりました」
松谷は荷物をまとめ日本へと帰国し、すぐに末次に報告がてら電話をする。
「台湾、無理でした。前にも話しましたように職を探さなくてはならないので、球団にあたっていただけますでしょうか」
「わかった、ちょっと待っとれ」
いつもと同じように末次は余計なことを言わずに電話を切った。
松谷は末次の電話がいつになるかわからないと思い、就活をし始めた。マグロ市場を見に行ったり、求人雑誌を見て訪問販売などを考えたりもした。三月に入り、寒さもようやく薄れ、暖かい空気がほんのりと広がり出す頃、末次から電話があった。
「明日、市ケ谷へ来い!」
今度こそ、就職の話だ。
松谷は、希望を胸に抱き向かった。
指定されたレストランに行くと、また見知らぬおっさんが同席していた。今度は、どこか威厳があって品のある中年男性。実は、末次が懇意にしている建設会社の社長で、WCBF(世界少年野球推進財団)を手伝うなど野球界に精通し、会社の専務理事には藤田元司(元巨人監督)が名を連ねていた。
「どうだ、世話になってみないか!?」
末次が躊躇なく勧めてくるが、松谷は迷った。
そんなときに社長が口を開く。
「これから新しい会社を作るので、いずれキミを社長として迎え入れたい」
驚くべき言葉が投げかけられた。「社長かぁ」この響きで迷いは吹っ飛び、松谷はその会社で世話になることになった。
(後編へつづく)
文=松永多佳倫
photograph by Sankei Shimbun