関ヶ原に間に合わなかった徳川秀忠の本陣跡

二ノ丸の案内板に「上田合戦時の徳川本陣跡」と記されているように、関ヶ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦の舞台としても知られます。慶長5年(1600)、関ヶ原に向かうために、徳川家康の子、秀忠は東軍の軍勢3万8千を率いて中山道を進みました。碓氷峠(群馬県安中市・長野県北佐久郡)を越え信州に入ると小諸城主・仙石秀久は、秀忠を小諸城の二ノ丸に迎え、本陣を構えました。

二ノ丸は、西軍についた真田昌幸・幸村親子の居城である上田城(長野県上田市)方面を見渡す絶好の場所。上田城開城の返事を先延ばしする真田昌幸に激怒した秀忠は、上田城攻略を命じました。しかし、上田城に籠城する少数の真田軍に翻弄されてしまいます。結局、真田軍と和睦することとなり秀忠は小諸城に10日間も足止めされ、関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。

城内には小諸城とゆかりのある歌人の歌碑が点在しており、島崎藤村がよく知られます。二ノ丸の石垣に刻まれた歌の主は若山牧水。牧水と言えば、高等小学校から中学校時代の5年間を延岡城(宮崎県延岡市)近くで過ごし、延岡城に歌碑が立っています。城に立つ歌碑は文人たちの足跡を今に伝えてくれます。

徳川家への抑えとして築かれた天守

二ノ丸からさらに奥へ進むと、高さ約6メートルの石垣上に築かれた本丸が広がります。西隅にせり出した天守台の石垣は、一段高く存在感を見せ、かつてここに金箔瓦で葺かれた三重の天守が立っていたとされます。

関東の徳川家康に対する備えとして築かれたと考えられていますが、寛永3年(1626)の落雷による焼失後には、幕府の許しが得られず再建されることはありませんでした。

本丸には山本勘助が愛用したとされる鏡石があります。仙石秀久が城主になるよりも昔、武田信玄の軍師として名を馳せた山本勘助が小諸城の縄張りを手掛けたと考えられています。

小諸城がある浅間山麓周辺は、約1万数千年前の浅間山の噴火で流出した火山灰や軽石層が、その後の雨や河川の増水によって削られ、深い谷が形成されました。火山灰土がえぐれた地形「田切(たぎり)」を生かし、小諸城は天然の堀によって守られています。