「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将」、第8回は戦国最初期の名将・太田道灌(おおた どうかん)。家康が江戸を開く150年前に、江戸城を築いて城主となったことから、日本の首都東京の原点をつくりあげたとされる武将です。連戦連勝を重ねる軍略家でもありながら、「山吹の里」伝説に象徴されるように、和歌にも優れた文武両道の武将でした。戦国時代の黎明期を駆け抜けた名将の生涯を解説します!

若い頃から将来を期待された道灌
道灌の生家である太田氏は、道灌の祖父の時代から扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい)を務める家柄でした。家宰とは重臣の代表として家政を統轄する存在のこと。当時の関東は鎌倉府の統治下にあり、長官は将軍足利氏の一門が務めて鎌倉公方と称していました。この鎌倉公方の補佐をする役職を関東管領といい、上杉氏の世襲でした。扇谷上杉氏はその一族にあたります。

子どもの頃から利発だった太田道灌。9歳から11歳まで鎌倉五山で学問を学び、その才能は広く知られるようになりました。評判を聞いた山内(やまのうち)上杉氏は、道灌が欲しいと扇谷上杉氏に頼みます。しかし扇谷上杉氏は格上の山内上杉氏に「どんな財産にも代えがたい」と断わりを入れたといいます。道灌がいかに将来を期待されていたのかが分かるエピソードですね。

その後、道灌は足利学校でも学び、当時最高の学問を修めていきます。足利学校は日本最古の学校といわれた当時の最高学府です。宣教師のフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名なり」と評したほどの学校で、儒学や易学、軍学や医学などを教えていました。出身者は戦国武将のもとで活躍した人物も多く、徳川家康のブレーンとして活躍する天海もここで学んでいます。