財政社会学者の井手英策さんは、ラ・サール高校→東京大学→東大大学院→慶應義塾大学教授と、絵に描いたようなエリート街道を進んできました。が、その歩みは決して順風満帆だったわけではありません。

貧しい母子家庭に生まれ、母と叔母に育てられた井手さん。勉強机は母が経営するスナックのカウンターでした。井手さんを大学、大学院に行かせるために母と叔母は大きな借金を抱え、その返済をめぐって井手さんは反社会的勢力に連れ去られたこともあります。それらの経験が、井手さんが提唱し、政治の世界で話題になっている「ベーシックサービス」の原点となっています。

勤勉に働き、倹約、貯蓄を行うことで将来の不安に備えるという「自己責任」論がはびこる日本。ただ、「自己責任で生きていくための前提条件である経済成長、所得の増大が困難になり、自己責任の美徳が社会に深刻な分断を生み出し、生きづらい社会を生み出している」と井手さんは指摘します。

「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点を、井手さんが日常での気づき、実体験をまじえながらつづる連載「Lens―何かにモヤモヤしている人たちへ―」(毎週日曜日配信)。第6回のテーマは「そばにいるということ」です。

娘の言葉に妙な引っかかりを覚えた

わが家の4歳の末娘。ゆっくり、ゆっくり、会話が上手になっている。そんな彼女のなかで、最近、流行っているのは、お父さんにやさしくすることだ。

「お帰り。今日も頑張ったね。肩もんであげようか?」

「のど渇いた? ビール持ってきてあげようか?」

「お肉が大きいね。切ってあげようか?」

娘のやさしさ、健やかな育ちに触れ、心が癒やされる……のだが、じつは、妙な引っかかりを覚える「もう1人の自分」がいる。

正直に言おう。してあげる、という言葉が気になるのだ。

4歳児のやさしさに難癖をつけるのは、相当、大人気ないことだが、こればっかりは学者の性(さが)、どうしても気になって辞書で調べてみることにした。

広辞苑によると、「あげる」は、動作を他の人にして「やる」という意味の丁寧表現だそうだ。じゃあ、「やる」の意味は?と思い、調べてみると、こう書いてあった。

「同等以下の者のために労を執り、恩恵を与える意を表す」

文字は恐ろしいものだ。違和感の正体が一気に可視化された気がした。そう、私は、格下に恩恵を与えてやっているという、「上からの目線」に引っかかっていたのだ。