瀬戸内の穏やかな波に揺られ、香川県高松市の港から船で20分ほどで、小さな島の桟橋が見えてくる。国立ハンセン病療養所「大島青松園」への入り口だ。対岸の岡山市に住む歌手の沢知恵さん(53)は、この島に30年近く通い続けている。
 大島青松園には2024年1月時点で、ハンセン病から回復した元患者32人が暮らしている。平均年齢は86・8歳だ。
 「患者として隔離され故郷を奪われた人たちから、故郷に来たときのように迎えられる場所」。沢さんにとって、園はそんな存在だ。初めて島を訪れたのは、生後半年の時だった。(共同通信=吉田梨乃)

 ▽奇跡の歌声
 2023年8月、20年以上続ける年に一度の大島でのコンサートに、島内外から約50人が集まった。沢さんは、園の歴史や入所者の詩を曲にして歌った。
 沢さんのピアノに合わせ、入所者の東條高さん(93)が、加山雄三さんの「君といつまでも」を歌った。力強く太い声を響かせ、亡き妻の康江さんを思い「幸せだなあ」のせりふを口にすると、大きな歓声が湧いた。
 「タカさんの奇跡の歌声、すてきでしょ?」。仲むつまじい2人の姿と繰り出されるハーモニーに観客はとりこになった。

 ▽ハンセン病療養所
 こうしたハンセン病療養所は、全国に14カ所(国立13、私立1)あり、厚生労働省によると、2023年5月時点で国立療養所には元患者810人が暮らす。平均年齢は87・9歳だ。
 ハンセン病の感染力は弱いが、国は1907年から医学的根拠のないまま隔離政策を採り、患者を療養所に強制入所させた。戦後に治療法が確立した後も、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで、人権侵害の隔離政策は続いた。
 現在もハンセン病への根強い偏見や差別、後遺症、高齢化などのため、元患者らが療養所で暮らしている。

 ▽特別な出会い
 沢さんと大島青松園の出会いは1971年にさかのぼる。生後6カ月の時、後に牧師となる父に連れられ、園内の教会「キリスト教大島霊交会」の礼拝に参加した。
 それは園にとって特別なことだった。
 「園で赤ちゃんを見るのはめったにないことでした」と沢さんは語る。なぜか。入所者は不妊手術や堕胎を強いられる人権侵害を受けていて、子供を持つことが許されなかったからだ。
 沢さんは、父が残した写真や、今でも幼い沢さんの姿を覚えている東條さんから、当時のことを聞いた。
 「教会内でも島外の人と入所者側のスペースが区分されていましたが、その境界を元気よくハイハイで“越境”する私を見て、入所者の皆さんは驚き、私を順番に抱っこして、かわいがってくれたそうなんです」

 
 ▽25年ぶりの来訪
 大人になった沢さんは1996年、高校生の時に亡くなった父の足跡をたどるため、25年ぶりに島の来訪を果たした。
 高松港から船に揺られ、大島の桟橋を見ると、15人ほどの入所者が横に並んでいた。手を振りながら「ともえちゃーん!」と涙ながらに歓迎してくれた。
 「驚きました。私を25年間も覚えてくれていたなんて」

 入所者が書いていた日誌には、沢さんの誕生日である2月14日の欄に「ともえちゃんの誕生日」と書かれているものが見つかったとも聞いた。幼い頃の自分をずっと覚えてくれていた温かさと優しさに、心打たれた。
 以来、当時住んでいた関東から毎年足を運び、交流を重ねた。対話し、礼拝し、けんかもして、本音で語り合えるほど仲を深めた。
 「部屋で一緒に歌ったり、礼拝で賛美したり。入所者の方々は歌が大好きなんだと知って、園で毎年コンサートを開くことにしたんです」

 ▽鎮魂の歌声
 2013年、仲の良かった入所者の塔和子さんが83歳で亡くなった。関東に住んでいた沢さんは、最期に会うことがかなわなかった。

 変わりゆく療養所に感じる、焦りと悔しさ。「近くにいたい」と意を決し、翌年、対岸の岡山市に引っ越した。
 移住後は毎週日曜の礼拝を頻繁に訪れ、入所者とともに賛美し、祈りをささげた。困難を抱えながらも響く鎮魂の歌声。奴隷制度を起源とする黒人霊歌に通じるものを感じ、心から魅了された。

 そんな教会にも、高齢化の波は押し寄せていた。2015年、信徒が数人に減り、教会の存続が難しくなった。
 「入所者たちが築き上げてきた教会をなくしてはいけない。私が一人でやるから、礼拝を続けさせてほしい」。沢さんは東條さんを含む信徒らに懇願した。
 「知恵ちゃんがやってくれるなら、お願いね」。そう託され、2016年から毎月、全国から牧師を呼び、島内外の人を招いて礼拝を続ける。
 島への人の往来が制限された新型コロナウイルス禍でも、牧師と2人だけの参加を条件に、礼拝を続けることを園から特別に許された。
 感染拡大が懸念される中で、続けるべきか葛藤する時もあった。それでも「島に足を運び続けることに意味がある」と信じてきた。
 船でないと渡れない離島の園。「外からは中の様子が見えない。大島は自分から見に行かなければいけない場所だった」

 ▽変わりゆく療養所
 いつか、入所者はいなくなる。そうすれば、園は療養所としての役割を終える。沢さんにとってコンサートや礼拝は、多くの人が島を訪れるための「口実づくり」でもある。
 歴史を生かすためには、島に人が足を運び続ける必要があるからだ。
 「大島へ渡る船がなくなれば、人が行けなくなる。それでは園の歴史と入所者の生きた証しを伝え続けることができない。だから、私はこの島を残していきたいんです」

 ▽収容所の重さ
 沢さんはハンセン病音楽史の研究がしたいと、岡山大大学院に入学、修了している。
 きっかけは2014年ごろ、教会で見つけた古い楽譜だ。そこには、全国の療養所に残る「園歌」が記されていた。
 入所者みんなが口ずさむことができ、国の強制隔離政策を反映した歌詞や、苦難の中で希望を見いだそうとする入所者の思いが込められた歌だった。

 修士論文の調査や公演を目的に、大島以外の各地の国立療養所にも足を運ぶようになった。
 岡山県瀬戸内市の「長島愛生園」とも関わりを深め、2023年10月、ハンセン病患者が消毒や身体検査のために隔離された収容所「回春寮」で初めて公演を開いた。
 回春寮は、患者が入所後に最初の1週間隔離され、衣服を脱がされてクレゾール入りの風呂で全身を消毒された場所だ。

 2015年に初めて収容所を訪れた沢さんは、その空間が持つあまりの「重さ」にたじろいだという。「8年を要したが、負の歴史と人々の生きた証しを伝えたい」と、コンサートに踏み切った。
 冒頭に歌ったのは、園歌「開拓の歌」だ。10歳で園に入所した宮崎かづゑさん(96)が、収容所の日々をつづった文章も沢さんが朗読した。宮崎さんをはじめ、入所者の中尾伸治さんと石田雅男さん、懐子さん夫妻も参加した。

 ▽使命
 目の前で演奏を聴いてくれた入所者たちは皆、高齢だ。一緒に過ごせる時間は限られている。
 「入所者の方々とこの空間を分かち合えたことを、一生忘れない」
 ハンセン病の歴史を園外にも伝え、この場所をいつまでも忘れないようにする必要があることを再確認した。
 「生涯をかけて、ハンセン病の負の歴史と入所者一人一人の尊厳を伝えるのが、私の使命」

 ▽再び、あの桟橋で
 2023年8月、大島青松園でのコンサートが終わった後、大島の桟橋で、沢さんが高松港へと戻る観客の船を見送っていた。
 その桟橋は25年ぶりに島に来訪した時、入所者たちが「ともえちゃーん!」と手を振り、涙ながらに再会を喜んでくれた場所だ。
 あれから約30年。今度は島外から訪れた観客に「来てくれてありがとう」と思いを込め、船が海の向こうへ見えなくなるまで、力いっぱい手を振り続けた。
  「療養所に生きた人々の優しさ、温かさ、そして苦しさから、人間として大切なものを教わった。幼い頃の自分を覚えてくれ、入所者の方々が与えてくれた愛に、自分なりの形で応えたい」
 いつか入所者がいなくなる日が来ても、沢さんは島で歌い続け、ハンセン病の歴史と入所者の生きた証しを伝え続けることを、心に決めている。