桃田賢斗が会見

 バドミントン男子シングルスの桃田賢斗(NTT東日本)が18日、都内の会見で日本代表からの引退を表明した。かつて世界ランク1位に君臨した29歳。最大2枠となる今夏のパリ五輪出場権獲得が絶望的となっていた。27日からの国・地域別対抗戦のトマス杯(中国・成都)が日本代表として戦う最後の大会となるが、今後はSJリーグや全日本総合選手権など国内大会に出場しながらバドミントン教室など競技普及にも力を注いでいく。会見では今回の決断に影響した交通事故にも触れた。

 桃田は所属するNTT東日本の川前直樹監督と会見した。桃田は「再び世界のトップを目指すのは体力面、精神面において限界と感じ、決意いたしました」とコメント。所属のNTT東日本などに感謝した。

 昨年5月に始まった五輪代表選考は、世界連盟(BWF)が発表する4月30日付の五輪予選ランクで決定。シングルスは16位以内なら各国最大2枠の出場権を獲得できる。3月の全英オープン終了時点で2奈良岡功大(IMG)が日本勢最上位の4位につけ、初の五輪代表を確実にした。桃田は当時6番手の48位(現在7番手の52位)。2番手で11位の西本拳太(ジェイテクト)を残り大会で逆転する可能性が消滅していた。

 自身の不祥事で16年リオ五輪出場を逃したが、18年から世界選手権で2年連続優勝。日本男子初の世界ランク1位に上り詰めた。しかし、20年1月のマレーシア遠征中に交通事故に遭い、右眼窩底を骨折。金メダルを期待された21年東京五輪は、初出場で1次リーグ敗退に終わった。22年8月の世界選手権は2回戦敗退。選考レース中は世界選手権などポイントの高い大会に出られなかった。

 桃田と川前監督の会見全文は以下の通り。

――挨拶を。

「自分の口から感謝をお伝えしたいと思い、このような場を設けさせていただきました。引退の理由は2020年1月の交通事故から苦しいこともたくさんありましたし、自分の中で思うようなプレーができず、試行錯誤はしてきたけど、気持ちと体のギャップというか、そういうのが続いた中でもう一度世界を目指すところまでいけないと判断しました。ただ、(教室などで)バドミントンをしている方々ともっともっと羽を打つ時間がほしいと思い、代表引退を決意しました。

――日本代表で過ごした時間について。

「ほとんどがしんどい時間でしたが、凄く貴重な経験をさせていただき、充実した時間でした。(不祥事で)僕自身たくさんの人に迷惑をおかけして支えていただき、ここまでずっと何のストレスもなく続けさせていただけたのも周りの人たちのサポート、応援のおかげ。とても長いようで短く、トータルすれば凄く幸せな時間でした」

――最も印象に残る試合は。

「18年のジャパンオープンの初優勝ですね」

――自身にとって日本代表とは。

「子どもの時から憧れた代表のユニホームを着て国際大会を戦うのは誇らしいこと。誰しもがなれるポジションではないので、しっかり誇りと責任を持ってチャレンジできた」

――今後について。またパリ五輪に臨む後輩たちへエールを。

「代表は引退しますが、NTT東日本バドミントン部としての活動はまだまだ続く。チームの練習や地域貢献活動も積極的に参加していきたい。もっともっとバドミントンの楽しさを伝えられるイベントで自分から発信したい。バドミントンの活性化じゃないけど、もっといろんな人にバドミントンの楽しさ、スポーツの楽しさを感じてもらえるような活動をしたい。

(後輩たちへ)僕の立ち場から偉そうなことは言えませんが、一度五輪を経験した立ち場から言わせていただくと、いつも通りのことをいつも通り発揮することの難しさを痛感した。一発勝負なので結果を考えずいつも通りやってほしい。バドミントンが好きなので試合を見届けたい」

――交通事故以来、試行錯誤してきた。シャトルが二重に見えることもあったが、体はどのあたりでついていけないと感じたか。

「目の手術をしてから正直思うように見えない部分もあった。思うように体を動かせないところも。普段の疲れないはずの練習量でも疲労を感じた。その中で僕なりにトライはしたけど、ちょっともう世界のトップの人たちと戦うレベルは厳しいかなと思いました」

「自分の思い描いているプレーとの差が自分にとって一番しんどかった」

――ホッとした表情にも見える。事故の後に思うプレーができなかったとのことだが、ここまで続けてこられた理由は。

「そうですね……苦しい……う〜ん、自分の思い描いているプレーとできることの差、その差が自分にとって一番しんどかった部分でしたけど、本当にいろんな人のおかげでサポート、メッセージをくれた人だったり、そういう人のおかげで何回もくじけそうなところで続けてこられた。自分の一番バドミントンが好きという気持ちが続けてこられた気持ちかなと思います」

――パリ五輪レースの前に東京五輪について「もう一度あのコートに立ちたい」と言っていた。東京五輪はどんな舞台だったか。

「今思い返しても悔しい想いしかない。凄い攻撃的な相手に対して気持ちが引いてしまい、そこに対して自分の気持ちの準備ができていなかった。だけど、子どもの時から憧れた五輪の舞台に立てたことは凄くいい経験だと思う」

――トマス杯でどんなプレーを見せたいか。

「最近は自分の結果と応援が合わないくらいたくさんの人に応援していただけていて、本当に嬉しい限り。本当に自分の集大成なので貪欲にコートの中を動き回りたい。泥臭いプレーを見ていただけたら」

――パリ五輪に向けて選考レースはどんな気持ちで戦っていたか。

「奈良岡選手、西本選手が出だしから点数を稼ぐ中、自分は腰の怪我などで始めから厳しい状況だったけど、試合に出させていただける限りは自分を出し切ろうと思っていた。結果に繋がらなかったのは凄く悔しいけど、後悔はないので。出場できる2人はできなかった人たちの分まで頑張ってほしい」

――ファンも大勢いる。特に地元・香川の方々へ。

「自分の試合結果をニュースで報じていただけるのは、香川県出身として嬉しかったし、心の支えにもなっていました。国際大会に出ない決断は少し申し訳ない気持ちですが、これからも違う形で国内のバドミントンに貢献していきたいと思っているので、楽しみにしていただけたら」

――代表引退を決断した時期、何かきっかけになる出来事があったのか。

「正直、事故があってからずっと厳しいかなと感じていた。そのためにいろんな人に声を掛けていただいてまた頑張ろうと思ってトライして、また厳しいかなって何回も何回もあったその繰り返しの中で、この前のアジア団体に参加させていただいて、もう自分の中で今、日本代表引退を決断しても後悔することはないと思ったのが一番。今後についてはチームには所属しているので、必要とされる場面が来ればその時のために準備してしっかりチームに貢献したい」

――輝かしい成績を改めて振り返ってみて。

「僕自身もビックリするくらいの結果を出すことができたと思う。特に僕なりにバドミントンがどう上手くなれるか、強くなれるか追及していく中で運も味方してくれてこういう結果を出せたと思う。本当に周りの人たちに恵まれた。チームもそうですし、環境を作ってくださる方もそう。その人たちに感謝したい」

――右目、腰の怪我の間は苦しい時間が長かった。成長させてもらえた部分は。

「本当に僕はバドミントンを感覚でやるタイプ。なんでこうなるのか、なんで今のショットを打てるのか、言葉で説明することができなかった。一回できなくなって、どうやってやっていたのか考えるようになって言葉で説明できるように少しはなかった。今後、バドミントンを伝えていく中で、感じたことを言葉で次の世代の人たちに伝えていきたい」

――怪我をしても、技術があったからここまでできたのでは。世界に誇る、これは自分にしかできないと思うものは。

「凄い難しい質問(笑)。なんで……そうですね、やっぱり一言でいうと凄いごまかしながら上手いように見せる戦い方。正直、自分でも弱点を理解しているつもりだし、それを見せない戦い方が少し上手だっただけかなと」

――怪我をどう克服してここまで来たのか、怪我があっても世界で戦えた理由は。

「シャトルコントロールとスタミナだと思います。良い感じにかみ合って結果を残せたんじゃないかなと思います」

出場停止明けに変化「勝つことだけが全てじゃない」

――中学、高校を過ごした被災地の福島への思いは。

「中学から寮生として過ごしてたくさんのことがありましたし、あれから10年以上が経って少しずつ震災が世間の人たちから薄れていく中で、富岡高校の卒業生が活躍することで復興に向けて少しだけ貢献できたのかなとは思います。直接、地域の方、子どもたちと触れ合うことができなかったので、そういう機会で今後自分なりに取り組みたい。

 バドミントンを通じたイベントもしたい気持ちは凄くあるけど、僕一人ではどうにもならないので、これからもたくさんの人たちに協力してもらいながら、もっともっと上手くなりたいと思ってもらえるような活動をしたい」

――一番印象に残っている試合は18年ジャパンオープン。17年以降は勝つ以外にバドミントンを通して表現したいと思っているように見えた。

「2017年の復帰以降は勝つことだけが全てじゃないというのと、コート中での振る舞いだったり、コートを出てからの行動だったり、勝つだけじゃなく応援されるような、周りから愛されるような選手になりたいと思っていた中で、達成できたかどうかはわからないけど、今では本当にたくさんの方に応援していただけて、僕の日本代表としての約10年間は本当に誇らしいものだったんじゃないかなと思います」

――イメージと動きが合わない苦しさがあったと。葛藤していた期間はどういう気持ちで悩んだり、考えたり、どう過ごしていたか。

「僕一人の考えとして代表引退しようというのは簡単だったと思うけど、今まで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちは僕自身ずっとバドミントンしかしてこなかったので、コートの中でしか表現できない思いがあったので、そういう人たちの前で簡単に諦めたくないなという気持ちもたくさんあった。いろんな葛藤があったけど、正直やるからには世界一を目指したいなとずっと思っていた。

 正直、今の自分では厳しいかなと思った時に、次は支えてくれた人たち、応援してくれた人たち、自分に憧れてバドミントンを始めてくれた人たちに恩返しできるようにしたいと思ったので、日本代表引退を決断しました」

――見ている側も「20年の交通事故がなかったら」と思う。本人はどう捉えているのか。

「当初はなんで自分なんだろうと。思っていないといえば嘘になる。正直、しんどいことだらけ、辛いことだらけだった。辛いことを事故のせいにしたくなかった。それすら弾き返したかった。その気持ちだけです。あとは周りの人たちの心強いサポートのおかげでちょっとだけ踏ん張ることができたと思います」

――五輪はどんな舞台か。そこを目指せなくなる寂しさは。

「バドミントンを始めてから五輪は憧れの舞台でした。出場できたのは凄く嬉しかったし、その五輪で結果を出せなかったのは凄く悔しい気持ちでいっぱいですけど、日本代表を引退しても五輪を目指さなくなるということに関しては、今は後悔はないです」

――日本代表としてもがきながら戦ってきた。その中で中、高を過ごした福島の存在は。

「本当に僕が苦しい時に福島県の方々からのメッセージは凄く心強かった。どこかで気分転換したいと思った時は後輩たちのチームに行って一緒に練習することで、僕自身気持ちを新たに頑張ることができた。福島の方々に感謝していますし、これからは僕がもらった分、少しずつ恩返ししていけたら」

――今後の福島との関わりでイメージしていることは。

「具体的には何も決まっていませんが、地域貢献活動として3月に福島で講習会という形で参加して僕も楽しかったし、また福島でバドミントンの楽しさを伝えられたらと思います」

――海外選手に引退にことを伝えたか。

「海外の選手には伝えていないです」

なぜ団体戦のトマス杯が最後なのか「団体戦が凄く好き」

――日本代表で初優勝したのがトマス杯。代表引退試合を個人戦ではなく団体戦にした理由は。

「団体戦が凄く好き。今回のトマス杯に一緒に参加するメンバーにも本当に何回も相談したり、話を聞いてもらって、僕自身また頑張ろうと思えたのも今のメンバーがいたから。そういうメンバーに少しでも力になれればと思い、個人戦ではなく団体戦を選びました」

――18年のジャパンオープンが印象に残る試合に選んだ理由。大会への想いは。

「16年の出場停止処分から17年に復帰して、ジャパンオープンで正直応援されないんじゃないかなとか、ネガティブな気持ちも凄くあったけど、いざコートに立つとたくさんの方に応援していただけた。いろんな人にパワーをいただいていつも以上に力を出せたのを覚えています。日本で大きな国際大会で結果を出すというのが僕なりの恩返しの仕方だと思っていたので、それを形にできたので初優勝のジャパンオープンを選びました」

――今後、プライベートでもやってみたいことがあれば。

「僕は自動車の免許を持っていないので、時間ができたら免許を取って車に乗りたいと思います(笑)」

――最後に挨拶を。

「本日はお忙しい中、このような会を設けさせていただき、ありがとうございました。日本代表は引退しますが、まだまだ僕はバドミントン界に貢献したいと思っています。引き続きご支援のほどよろしくお願いいたします。ありがとうございました」

(THE ANSWER編集部)