1994年に長野県松本市の住宅街で猛毒のサリンがまかれ、死者8人、重軽症者約600人を出した松本サリン事件から6月27日で30年。麻原元死刑囚らは18年に死刑執行されたが、事件の幕は完全に閉じたのか。当事者の証言から探る、一連の記事をまとめました。

 松本サリン事件と報道 1994年6月27日夜、長野県松本市北深志でオウム真理教の犯行グループが、猛毒のサリンをまき、8人が死亡、約600人が重軽症を負った。当初、正体不明の毒ガス事件として注目を集め、第一通報者の河野義行さんがサリンを製造したかのように誤ってメディアが伝えた。現場周辺に記者らが詰めかけ、被害者である河野さんのプライバシーを暴く報道を続けた。97年の神戸連続児童殺傷事件や98年の和歌山毒物カレー事件とともにメディアスクラムのはしりとされている。

被害者の30年

警察やマスコミから犯人視 高校生だった娘が語る家族の原風景

 1994年6月27日夜、長野県松本市の住宅街で猛毒のサリンがまかれ、当時44歳だった会社員河野義行さん宅を直撃した。自宅にいた長女で高校2年の真澄さんは、母親の澄子さん=当時(46)=とともに意識を失った。

 「事件があっても生活を変えたくない。現状を維持したい。お母さんが毎日パンを焼いてくれたから、私もパンを焼こうかなと」。

 大阪市で今年5月、本紙の取材に応じた真澄さんは、涙を流して母への変わらぬ思いを語った。ふんわり焼き上げる技はまだ母に及ばない。母の形見となったパン焼き器を修理して、今も大切に使っている…(記事はこちら)

今も忘れない衝撃「この人が犯人」 過熱報道による「冤罪」から30年

 第一通報者の河野義行さん宅は、オウム真理教が猛毒サリンを散布した場所のすぐ隣にあった。このことが、被害者である河野さんに「加害者」のレッテルを貼る誤報の始まりとなった。

 県警は事件翌日、「毒ガスの発生源」とみて河野さん宅を容疑者不詳の殺人容疑で家宅捜索した。

 警察の見立てにメディアは飛び付き、その後の新聞各紙には「第一通報者宅から薬品押収 農薬調合に失敗か」などと見出しが躍った。義行さんは犯人扱いされ、家には、報道を信じた嫌がらせ電話や脅迫の手紙が届いた…(記事はこちら)

「正確に書きます、客観的に書きます」という人をあまり信用しなくなった

――事件から30年がたつ。

 真澄さん 高校や大学のころは自分の中で非常に大きな事件だったが、30年の間に重要な転換点をたくさん経験し、事件は相対化されてきた。

 マスコミからすると(事件を)忘れてはいけないというメッセージが必要かもしれないが、私としては平均化というか他の1日と同じ1日になっていく30年。

 今、事件のさざ波をあまり受けないところで日常を過ごせるのは大変ありがたい…(記事はこちら)

誤報による特ダネ競争「私たちは苦しんだ」 今も感じる報道への違和感

 当時、特ダネと、それを後追いするマスコミの競争で迷惑を被った。

 例えば、中日新聞が(義行さんが犯人と印象づける)独自記事を出し、他社も追おうとする。

 「うちの新聞だけ情報が抜けるのは困る」との理由だ。

 こうしたマスコミの姿勢は事件から30年たっても変わっていない…(記事はこちら)

生きていたら53歳。幸せな人生だったはず…巻き込まれた次男、母の苦しみ今も

 18年7月6日午前、テレビのニュースで麻原元死刑囚ら教団幹部の死刑執行を知った。

 死刑を望んでいたことは間違いないが、「もっともっと生きて、苦しんでほしかった」という気持ちがあったことにも気付いた。その複雑な思いは今も残る。

 事件から30年。「私にとっての終わりがあるなら、私が死んだときでしょうね」。房枝さんは淡々と語る…(記事はこちら)

当時を知る人たちの30年

サリンを特定した元研究員、腑に落ちない30年 同じ「化学の徒」がなぜ

 95年の元旦、全国紙の記事が目に飛び込んだ。

 山梨県上九一色村(当時)のオウム真理教の宗教施設でサリンの残留物が発見されたことを伝え、松本の事件との関連を示唆していた。

 「住宅街にサリンがあった理由が分かった」

 疑問が解け、新聞を持つ手が震えた…(記事はこちら)

長野県警の元捜査員「オウムだとほぼほぼ確信…」さなかに起きた地下鉄サリン事件

「やられた。オウムだ」

 95年3月20日、県警の捜査員だった上原敬さん(69)は直感した。

 松本サリン事件捜査本部が設置された松本署で、地下鉄サリン事件を伝えるテレビのニュースを見たときのことだった。

 上原さんは当時、捜査1課の特殊事件捜査係長。松本サリン事件では、薬品捜査班としてサリン製造法の解明を担った…(記事はこちら)

サリン製造のオウム信者は同じ医者として罪重い 松本で最初に治療に当たった奥寺さん

 信州大付属病院(長野県松本市)に1人の患者が搬送されてきた。

 意識はなく、痙攣(けいれん)もみられたが、原因は分からなかった。ただ、このような場合に通常は開く瞳孔が縮んでいた。

 「異常だ」

 当時、救急部副部長として治療に当たった奥寺敬さん(68)はすぐに有機リン系農薬中毒の症状と似ていると気付いた…(記事はこちら)

緊急時への備え、思い新たに 当時を知る消防・医療関係者の証言

 中村さんは当時、入局2年目。

 事件当日は珍しく静かな夜だった。

 「そういえば今日(救急が)ないよね」。夕食後に隊長と話していた直後、午後11時9分に「急病」の指令が入った。

 河野さん宅に向かうと、一家のうち義行さんら3人に異変が認められた…(記事はこちら)

初期治療にあたった医師「未知を想像、一つ一つ積み上げて」

 現場から2人目の患者が運ばれてきた。

 意識があり「甘く、アーモンドのような匂いがした」と言っている。

 「アーモンドといえば青酸ガス。でもさっきの患者はリン。どうすればいいんだ」

 当日の救急担当だった医師と悩みながら治療した。

 「当時はサリンを知らなかったため、未知のものかどうかすら分からなかった」…(記事はこちら)

30年を迎えた今

あの日から30年「ようやく来られた」 犯行現場近くに初の献花台

 事件で元上司を亡くしたという市内の50代女性は、初めて現場を訪れた。

 30年足が向かなかったが、献花台が設置されたことを知り「今日しかない」と思ったという。

 「身近な知っている人たちの名前が何人も(報道で)出てきた事件で、ずっともやもやした気持ちを抱えていた。もう言葉にならず、ただただ手を合わせた。ようやく来られた」と涙をにじませた…(記事はこちら)

【社説】松本サリン30年 「ペンを持つ警官」の悔恨

「麻原に認められたい」ゆがんだ承認欲求の果て 関わった信者は普通の人たちだった

 オウムが信者を集めた背景の一つは80年代に始まったバブル景気。

 社会の華やかさの中で劣等感を覚える人、精神的な癒やしを求めた人がいたという要因があるのではないか。

 宗教には都市のコミュニティーという側面もあり、地方から都会に出てきた人が信者になることもあった。

 99年に世界が滅びるとする「ノストラダムスの大予言」の本や、スプーン曲げのユリ・ゲラーなどの超能力ブームの影響もある…(記事はこちら)

「坂本堤さんの存在が後押しした」住民代理人の弁護士が振り返る

 坂本弁護士が消息を絶ち、背後で動いていると思われたオウム真理教が松本に来る。

 胸騒ぎがした。

 住民たちに協力し、弁護団の筆頭に。住民たちも教団の進出に反対する市民14万人余の署名を集めた。

 同市の人口の7割以上となる数は、人々の連帯と危機感の現れだった…(記事はこちら)

「松本サリン事件は被害妄想が生んだ過ち」 元信者で「ひかりの輪」広報が語る

 「社会から攻撃されているという被害妄想が生み出した自己中心的な過ちだった」

 オウム真理教の元信者で、今は後継団体の一つとされる「ひかりの輪」の広報、広末晃敏さん(54)は、松本サリン事件をそう捉える。

 事件は、教団松本支部道場の土地の明け渡しを巡る裁判で、訴訟を起こした住民や裁判官を敵対視して起こしたとされる…(記事はこちら)