「きっかけはコロナ禍でした。それまで全国各地から寄せられていた講演の依頼が、感染防止ということで一切なくなりまして。やることがない、困ったぞ。さて、この先をどうやって生きていこう……と考えていた矢先のことでした」

 巣ごもりの日々を笑顔で振り返るのは、日本テレビでアナウンサーや報道記者を務めた藪本雅子(56)だ。最近は「音羽亭左京」の芸名で、全国各地の落語会で高座に上がっている。

「モヤモヤが続いていたある時、思い立って立川談志さんの『金玉医者』という一席の映像を見てみたんです。私は寄席に行った経験もなく、文字通り初めての落語体験。それが見事にハマってしまいました」

 以来、数カ月。談志はもとより、古今亭志ん朝ら斯界の先達が遺した作品を見続ける“落語三昧”の日々が始まった。

「ある時、志ん朝さんも得意としていた人情噺(ばなし)の一つ『文七元結(もっとい)』を聴いていたら、感動のあまりおえつするほど泣いてしまって。それで、すごい世界があるんだなあと感じ入った次第」

趣味で始めたはずが…

 すっかり落語の魅力に取りつかれた藪本は、その後もあれやこれやと東西の作品を聴き続けた。すると次第に「自分もやってみたいという気持ちがメラメラと燃え上がった」という。

「ネットで検索して、社会人向け落語教室の『なまらくの会』に申し込みました。講師は落語立川流の立川寸志さん。大学を卒業後に大手出版社に勤務し、40歳を過ぎて噺家に転身した異色の方。私も50代からのスタートなので、どこかシンパシーを感じたんです」

 講座の期間は3カ月。課題の噺を覚えて稽古を繰り返し、それを発表会という形で講師や他の受講生の前で披露するものだ。

「心臓はバクバクでしたが、終わってみれば“快感!”でした。それから2年、自宅近くで京都大学落語研究会のOBが主催する社会人落語の会があると聞いて出かけたら、打ち上げの酒席で“一緒にやりましょう”と盛り上がって。趣味的に始めるはずが、本気の取り組みになりました」

 社会人野球ならぬ、社会人落語の世界。少しずつレパートリーも増え、いまでは「転失気(てんしき)」「権助魚(ごんすけざかな)」「お菊の皿」「やかんなめ」「松山鏡」など江戸の古典落語5席と、上方落語の「動物園」「元犬(もといぬ)」という2席を持ちネタにしているそうだ。

「滑稽噺も人情噺も大好きで、いまは両方の要素を持つ『厩火事』を勉強中。酒好きで働かない亭主と、自分への愛情を試す髪結いの女房の姿を描く噺ですね」

「電話しているフリをしながら、ボソボソ喋って…」

 ところで藪本は、90年代に2人の同僚アナとともに歌手ユニット「DORA」の一員として活躍した。後のアイドルアナブームの火付け役の一人だが、現役時代に培った明朗な発声や滑舌の良さは落語家としてプラスでは?

「聞き取りやすいかもしれませんが、あまり関係はないですね。局アナには原稿があるので暗記は必要ありません。落語には標準語とは違う江戸弁も出てきます。何より、人を笑わせるというのが難しい。局アナ時代はバラエティー番組に引っ張り出されて、笑われることも多かったですが……」

 今月14日に東京・両国のビールバーで、プロが共演する寄席に出演したばかり。

「恐れ多くも前座を務めさせていただきました。会場の空気を温めるという重要な役目で緊張します。夏日とあって、冷たいビールを手にしたお客さま方は笑う気満々。披露した『動物園』で盛り上がりました」

 普段の練習は街中という。

「ハンズフリーで電話しているふうを装い、ボソボソ喋りながら歩いています。日中のカラオケ店も集中できるし数百円でお得ですよ」

 高座の前は「泣きそうになりながら覚えている」と言い残し、和服姿で“稽古場”に向かう姿はまさしく噺家・音羽亭左京であった。

「週刊新潮」2024年4月25日号 掲載