日本が世界に誇るドラマー、神保彰(65)が、DREAMS COME TRUE(ドリカム)の35周年記念ライブに、スペシャルゲストドラマーとして参加する。ドリカムの中村正人(65)の熱望によって実現したビッグアーティスト同士の共演となるが、中村をも魅了してきた神保のドラム人生を、今、改めて本人が振り返る。

GSに憧れて

「僕の世代で初めて目にした、耳にしたドラムというのはやはりGS(グループサウンズ)。圧倒的なブームで僕も夢中になって」

 小学生時代を振り返り、そう語る神保。でもなぜGSの中でもドラムなのか。

「『ジャッキー吉川とブルー・コメッツ』の吉川さんもそう、『ザ・スパイダ―ス』の田辺昭知さんもそう。フロントマンよりドラマーがリーダーというパターンが多くて、“なんでドラムの人がリーダーなんだろう?”と考えているうちに叩くことに心を惹かれていったんです」

 食卓の茶碗をドラムに見立てて叩く姿に、中村八大との共演経験もあるジャズベーシストの父が「この子はひょっとするとドラムを叩かせたら面白いかも」と中学の入学祝にドラムセットを買ってくれた。

 神保のドラム人生の始まりであったが、その第1章は1年も経たずに終止符を迎える。

「何の情報もなく、スクールもなく、教則本は何冊かあったけど、なんだかよく分からないし、そのうちに飽きちゃったんですね」

 そう苦笑する神保は、しばらくの間、戦車や戦闘機、戦艦などのプラモデル作りに心血を注ぐようになる。

「タミヤ模型や長谷川製作所など4社が共同で出していた『ウォーターラインシリーズ』にはハマりましたね」

 ちょっとドラムとの系統は違うが、手先の器用さは当時から発揮されていた。

FMから耳コピで

 再び、ドラムへの熱が高まるきっかけとなったのは高2の夏。聞いていたFMラジオから、ボブ・ジェームス(ピアニスト)の『フィール・ライク・メイキング・ラヴ』が流れてきた。

「今までに聴いたことのない音楽だな」

 こう感じた神保はアーティストの名をメモに取り、早速レコード店で同曲の入っていたLPアルバムを買い求めた。

 アルバムを聴くと、目当ての『フィール…』ではなく、別の曲にグイと引き込まれた。タイトル曲である『はげ山の一夜』。クラシックのムソルグスキーの名曲だが、ジャズ風にアレンジされたその曲で、神保の耳を虜にしたのが、米国のドラマー、スティーヴ・ガッドが叩くドラムだった。

「それまでドラムといえば縁の下の力持ち的なイメージだったが、この曲は真逆。ドラムがサウンドの中心におり、音楽が成り立っていて、その表現力の豊かさを再確認した」

 この衝撃は、押し入れに眠っていたドラムセットを引っ張り出すことにつながり、『はげ山…』を何度も繰り返し聞いて、その演奏を再現する作業にあたった。現在のように、ちょっとネットで探せば動画や映像が見られる時代ではもちろんない。すぐに飽きてしまった中学時代とは異なり、「いろんな音を聴き分けられるようになっていた」ことから、“耳コピ”で、ガッドが演奏する『はげ山…』を再現した。

「カシオペア」への道

 1970年代後半に差し掛かっていた当時は、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンなど、ハードロック全盛時で、同級生らはそちらに心を奪われていたが、「僕は、当時『クロスオーバー』と呼ばれていたフュージョンに、その頃から興味がありました」と振り返る。

 フュージョンにいっそう関心が深まった高3時。クラスで斜め後ろに座っていた同級生に声を掛けられる。

「ドラムやってんの?」

 強面でアウトローな感じがする同級生で、近くに座っていたにも関わらず、それまでは全く接点がなかった。「僕はどちらかというとひょろっとしたがり勉タイプだったので」と笑う神保だが、この同級生はサックスを吹き、大学生らとフュージョンバンドを組んでいて、ドラマーを探していたのだという。

 紹介されたバンドには、後にフュージョンバンド『PYRAMID』で組むギタリストの鳥山雄司もいた。それまで一人でドラムを演奏していた神保にとって、通っていた慶応高校のある日吉近辺の練習スタジオを、1〜2カ月に1度程度借りて行うセッションはことのほか楽しく、「練習日が待ち遠しかった」という。

 慶応大学への進学後は、名門のビッグバンドジャズのクラブ「ライト・ミュージック・ソサイエティ」に入部したが、そこに待ち受けていたのは体育会系的な上下関係だった。

「当初は、新入生で部を乗っ取ってやろう、という意気込みを持っていたんですが、上級生は絶対の存在。1年生の間は楽器運びや写譜などの雑用がメインで、ネズミのようにこき使われていましたね」

 学年が上がると、フュージョン作品をビッグバンド風にアレンジし、演奏するように。そんな中、1979年4月に渋谷の109がオープンを迎える。オープニングイベントで歩行者天国での演奏をすることが決まった。ところが出演予定だった4年生のベーシストが、イベントと就職面接が重なってしまったため、イベントに出られなくなってしまった。

 3年生のトランぺッターが「同じゼミにベースをやってるのがいるから、(エキス)トラで(出演するよう)頼んでみる」と連れてきたのが、当時すでに「カシオペア」での活動をしていた櫻井哲夫だった。

 櫻井の代打演奏で無事にイベントを終えた後、神保は櫻井にこう告げられた。

「楽しかったね〜。また一緒にやろうよ」

「楽しかったね」はともかく、後半の言葉は「社交辞令と思っていた」という神保だが、翌週、「ちょっとうちに遊びに来ない?」と櫻井が連絡してきた。

 慶応志木高出身の櫻井が当時住んでいた埼玉県志木市まで赴くと、後からやってきたのがカシオペアのリーダー、野呂一生。すでに発売されていたカシオペアのアルバム2作品を聞かされた。

「まさに自分がやりたいようなフュージョン。いい音楽だな」と聴き入っている神保に、野呂が一言。

「どう? カシオペアでやってみない?」

 ビッグバンドも好きだが、カシオペアの音楽の魅力には抗いがたく、その場で「やってみます」と返答。当時の気持ちを「プロになる意識というよりも、大学のサークルよりカシオペアの方が面白そうだな、と感じたので」と明かす。

憧れのドラマーと

 大学3年までで卒業に必要な単位を取り終えていた神保は、4年生時の1年間のほとんどを、レコーディング、ライブ…と続くカシオペアの活動に費やした。

 秋には米ロサンゼルスでのレコーディングが決まる。4年からの就職活動の時期をカシオペアのドラマーとして過ごし、秋のロス行きが決まった時点で「就職は諦めてカシオペアに集中しよう」と決めたという。

 ロスのレコーディングのプロデューサーはハーヴィー・メイソン。ガッドと並んで神保が尊敬してやまない名ドラマーだ。

「ガッドは縦の線がビシッと合うような正確無比なドラムが持ち味。対してメイソンには黒人特有のグルーヴ感があり、彼のリードアルバムはもちろん、参加作品のディスコグラフィーを完璧に揃えていたほど。かじりつくように聴いていたし、まずはアルバムを持っていってサインをもらうところから始めた」と笑って振り返る。

 メイソンがまずカシオペアに指示したのは「お前ら、とにかく何もやるな」という点だった。

「当時のメンバーはみなまだ20代前半。血気盛んで、隙間があれば全部埋めちゃうようなスタイルでやっていた」というが、メイソンの指示でリズムに集中した結果、「ガチャガチャしていたサウンドが、シンプルで骨太なものになった」という。

 こうして出来上がったアルバムが81年4月発売の『EYES OF THE MIND』。それまでスリル・スピード・テクニックを売りにしていたカシオペアだけに、発売からしばらくは「これはカシオペアじゃない」「いや新しくて気持ちいいサウンドだ」などとファンの間でも賛否両論が巻き起こっていた。

「ところがアルバムの翌年のツアーから、ライブでお客さんが立って踊るようになったんです」

 メイソンが求めたグルーヴ感が聴衆の体を動かすようにいざなったのだ。

「テクニックだけを追い求めると表層的なサウンドにもなりかねない。ハーヴィーが求めていたのはグルーヴ感によって、深みや奥行きのあるサウンドだったのだと、後になって理解しましたね」

世界の地で得た感慨

 当時、所属していた「アルファレコード」の村井邦彦社長の「インスト(インストゥルメンタル)は国境を超える」という方針を体現する形で、フュージョンバンドのカシオペアは、海外でも積極的にツアーを行った。

 80年代半ばには英ロンドンを訪れ、リバーサイド地区の「ハマー・スミス」で演奏した。英国では「ジャズ・ファンク」と呼ばれていたフュージョン音楽を耳にした客らが踊り出す姿を見て、「洋楽に憧れて育った身としては、英米文化圏の人々が自分たちの音楽を聴いて反応し、楽しんでくれることに対して、特別な感慨があった」と述懐する。

カシオペアから脱退

 20代の10年間をほぼカシオペアの活動に捧げた神保。野呂に師事して作曲も学び、80年代半ばには、中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』への楽曲提供(『恋人のいる時間』)を行うなど、活動の幅を広げていた。

 ソロ活動も行う中で、櫻井とのコンビで『シャンバラ』、後に『JIMSAKU』につながるユニットを結成。このユニットでの音楽性の追究を模索した結果、二人が好んだ「ラテン音楽を一番のキーにおいて活動したい」と一致。結果、カシオペアを脱退することとなった。後にバンドスタイルで演奏するようになった際に参加したキーボードの森村献の影響でキューバ音楽にも傾倒。「リズム楽器奏者としての表現力を広げるいい機会となった」という。

 作曲は後に「1日1曲作ることを自分に課していた時期もあった。“作曲1000本ノック”といった状態で、メロディーの一部やコード進行をベースに、いかに曲を膨らませていくかという作業を身につけていった」と明かす。こうした作業が前述の明菜への提供曲や、NHK Eテレの「おかあさんといっしょ」で歌われる「にじのいろとおほしさま」などにつながってきた。

尊敬する100人

 世界をベースに活動を続けてきた神保が2007年10月、『ニューズウィーク』(日本版)の「世界で尊敬される日本人100人」に選ばれた。

 米国やロシア、中国といった大国だけでなく、欧州、東南アジア、中東、南米など世界各地を回り、ドラムを叩くと同時にメロディーをも奏でるシステムを使って、一人でオーケストラのような演奏ができる仕組みを使った「ワンマンオーケストラ」と呼ばれる誰もがやってこなかったスタイルで世界を席巻。さらにドラムクリニックを開催してきた。

「純粋にドラムが上手な人なら星の数ほどいる。人と違うことをやってきたことで、(この選考に)引っかかったのだと思うけど、やはり嬉しかったですね」

オンラインも活用

 コロナ禍以降は、それまで全国を回っていたツアーも中止せざるを得なくなり、「何ができるか」と考えて始めたのが、ユーチューブで展開する『OUCHI DE JIMBO』と題するオンライン配信だ。「オンラインではあるけれど、チャットなどを通じてコアなファンの方との関係性をずっと維持できる」と実感。コロナ前までの全国津々浦々のライブハウスを回るツアーは「今ならできるけれど、5年後、10年後を考えたら体力的に厳しくなる」とコロナの時期を機にやめ、代わりに中小規模のホールを回るツアーを年間10本程度行う形で、オンラインとリアルの両軸での活動を続ける。

 その『OUCHI DE JIMBO』で発表されたのが、今年9月から始まるドリカムのツアー「ウラワン」へのゲストドラマーとしての参加だ。生配信で発表されるやいなや、「ええええええ?」「すごーい!」など多くの喜びの声がチャットで上がった。

 さらに、『ミュージックステーション』風のタモリの真似をする中村の振りでワンマンオーケストラでの『うれしい!たのしい!大好き』を披露。コード進行などもプログラミングで組み込む「ワンマンオーケストラ」の真髄を見せた。

 ドリカムの「ウラワン」は、“これでもか!”とばかりにヒット曲が並ぶ「ドリカムワンダーランド」の裏バージョンとして、ファンに愛される隠れた名曲を集めたライブとして大人気を博しているだけに、本番で神保がどんな曲を叩くのかも気になるところだ。

いつまで叩けるか

「実は僕も前期高齢者に入ったんですよ」

 こう言って笑う神保。ドリカムのライブへの参加を持ち出すまでもなく、まだまだ現役バリバリのドラマーだが、自身が抱えるテーマには「いつまで現役の演奏家でいられるか」というものがある。

「人によって年齢でどうなるかは本当に未知数。その意味では健康管理というのは、音楽家のかなり大事な仕事になる」と断言し、「いかに長く現役で演奏を続けられるかは自分にとっての挑戦だ」と話す。

 ただ演奏するだけではない。「70歳にしては、とか80歳にしては、のような見られ方ではなく、今までの演奏レベルを下げずに続けられるか」を自身に課している。91歳にしてアルバムを発売したサックスプレーヤーの渡辺貞夫を例に挙げ、「ナベサダさんのように、全然衰えを知らない。あんなふうになりたいです」と目標を掲げる。

 演奏のレベルを下げない、とは、決して若い頃の演奏のまま、という意味ではない。

「奏法自体は若い頃と全く変わってきているんです。若いときの力任せの演奏ではなく、どんどん脱力する方向に奏法を見直してきた。今はいかに脱力して、いかにドラムに鳴ってもらうか、いかに響かせるかを念頭に置いています」

 前述の『うれしい!…』でも、いい意味で脱力した神保の演奏が見られ、中村を目当てに配信を見たドリカムファンらも魅了した。また新たな魅力をまとう神保のドラムが、新しいファンを引き込もうとしている。

デイリー新潮編集部