インターネットの爆発的な普及で変貌を遂げた薬物密売、急激に低年齢化が進む大麻乱用、かつて壊滅したはずの危険ドラッグの再流行――。スマホひとつあれば中学生が密売人と容易に接触できる現在、誰にとっても「薬物犯罪」は他人事ではない。麻薬取締部(マトリ)の実質上の本部である、関東信越厚生局麻薬取締部で部長を務めた瀬戸晴海氏の言葉を借りれば、まさに「薬物犯罪は時代を映し出す鏡」なのだ。昭和、平成、そして令和へと時代が移り変わるなか、“伝説の取締官”が薬物を巡って繰り広げられる人間模様を描き出す。

 今回、瀬戸氏が取り上げるのは、大麻と同様に若者の間で不気味な広がりを見せる「LSDアナログ」である。

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 ある夏の日の夕暮れ時、下着姿の男が首を前後に振りながら斜め上空を凝視していた。やや屈んだ状態で両脇を締め、ぴょんぴょんと跳ねているのが見える。異変を察知した鶏が飛び立つ瞬間のようだ。

「こいつ、エル(LSD)の効き目か? まさか……」

 向かいのビルの監視拠点にいた私は、「信じられんが、対象が飛びそうだ。欄干に上るぞ。すぐに執行しろ、抑えろ!」と、男の隣室に待機する捕捉班に無線で指示した。耳に届く「えっ、なんすか?」という班長の疑問符をかき消すように、「いいから蹴破ってでも飛び込め、飛ぶぞ、絶対に死なせるな!」と大声で叫んだ。

 現場は古いマンションの7階――。曲芸師のような麻薬取締官が、境壁を蹴破って男の部屋のベランダに次々と雪崩れ込む。そして欄干を越え、飛び降りる寸前の男を抑えた。

 私が現場に急行すると、そこでは極度に興奮し、意味不明なことを口走る男が、取締官に両腕両足を抱えられていた。薬物使用者は数多く目にしてきたが、取締官に確保されるとおとなしくなる者がほとんどだ。その意味で、男は珍しいくらいに暴れていた。

「1D-LSD」による錯乱事故が急増

 これは、強烈な幻覚剤である合成麻薬LSD(リゼルギン酸ジエチルアミド)の密売人を逮捕した(救った)ときの一場面だ。男は密輸したLSDのブロッター(筆者注:blotter/吸湿性のある紙片に原液をしみ込ませたもの。大きさは6〜10ミリ四方。一般的に舌下で溶かして使用する)を味見し、俄に錯乱し始めた。男を病院へ搬送するも、意識が戻るまでに約4時間を要した。

「仕入れた高濃度の紙(ブロッター)を試していると、鳥になれるような気がして……。空は何重にも赤かった。こんなのはじめてだよ」

 男は脈絡のない説明に終始した。2000年代初頭、私が捜査課長だった時代の話である。だが、昨年来、同じような事件を見聞きするようになった。24年4月5日のNHKオンラインニュースを紹介しよう。

<(前略)ことし2月には、東京・新宿区で22歳の女性が「1D-LSD」と書かれた製品を摂取したあと、マンションの8階から飛び降りて死亡しました。一緒にいた男性の説明では、女性は摂取後に急に様子がおかしくなり、「新しい自分になる」とか「飛んじゃう」などと意味のわからないことを話したあと、男性が目を離した隙に飛び降りたということです。「1D-LSD」はインターネットで購入したものでした。(後略)>

 1月には香川県高松市で20代の男子大学生が「1D-LSD」らしきものを摂取した直後にマンションの4階から飛び降りて死亡している。16歳の男子高校生が錯乱し路上で大暴れしたケースもある。

作用・効果はLSDとほぼ同じ

 これは、いま出回っている「LSDアナログ」(筆者注:化学において、類似体、類似化合物を意味する)の摂取による錯乱事故だ。

 実は、2015年頃から、LSDの骨格のある部分に“置換基”(筆者注:水素と置き換え可能な原子団)をくっつけた「1P-LSD」や「IB-LSD」といった化学名で呼ばれる「アナログ」が、ヨーロッパで製造されるようになり、続々と世界にばらまかれている。

 各国の規制を免れるため、様々な置換基をくっつけ、構造式を僅かに変化させて未規制の物質に仕立て上げているのだ。厚労省はすでに8物質を確認し、規制しているが、23年に「1V-LSD」を規制すると、直ちに「1D-LSD」と表示される製品が出現。1枚5000円程度で一気に拡散した。

 これら「アナログ」は、置換基が結合した位置や置換基の略称などから「1D」のような接頭辞が付されて命名される。そのため、未規制の新製品との印象を受けるが、構造本体はLSDに違いなく、作用・効果はほぼ同じと思っていい。

 摂取したLSDブロッターが高濃度だったり、使用者の心身が不調だったりすると、音や色が強烈に変化する幻覚を生じさせ、のみならず感情も激しく変容する。衝動性も増し、“不可能が可能になる”との錯覚に襲われる。

 そのため、前述の「鳥男」はもちろん、新宿の女性のような最悪の結果を招くことも珍しくない。

「カーテンがアナコンダに」

 先日、私が対応した相談案件では、19歳の男子大学生が“カーテンに追われる”という凄まじい幻覚を見て、喚きながら窓から飛んでいた。彼は「カーテンのヒダが双頭のアナコンダに変化し襲ってきた」と口にした。

 幸いにも現場は戸建ての2階であり、足首の骨折だけで済んだものの、家族の驚きようは尋常ではなかった。サイケデリックな世界を経験したいとの軽い好奇心から、未規制のアナログ製品を購入して使用。結果は、アナコンダに変化したカーテンに襲われて骨折するという始末だ。

 LSDは“μg(マイクログラム)”で効果を発揮する。1μgはわずか「100万分の1g(塩粒0.01個分)」である。

 摂取量が「10μg」以上になるとサイケデリックな知覚を感じはじめ、「50μg」以上で信号が眩しくなり、時間感覚も変化する。「150μg」を超えれば自己の解体がはじまり、「300μg」ともなれば、神秘の世界を彷徨うと言われる。が、これは同時に地獄の領域に足を踏み入れたということでもある。

 こうした“錯乱”事案の急増を受け、厚生労働省の専門家会議は、「1D-LSD」を“指定薬物”に指定することを承認。5月11日にも「1D-LSD」などを含むとみられる製品の販売、所持、使用が禁止されることになる。

 未規制も規制もない。こんな薬物で死ぬ必要はない。鳥になる必要もない。

瀬戸晴海(せと はるうみ)
元厚生労働省麻薬取締部部長。1956年、福岡県生まれ。明治薬科大学薬学部卒。80年に厚生省麻薬取締官事務所(当時)に採用。九州部長などを歴任し、2014年に関東信越厚生局麻薬取締部部長に就任。18年3月に退官。現在は、国際麻薬情報フォーラムで薬物問題の調査研究に従事している。著書に『マトリ 厚生労働省麻薬取締官』、『スマホで薬物を買う子どもたち』(ともに新潮新書)、『ナルコスの戦後史 ドラッグが繋ぐ金と暴力の世界地図』(講談社+α新書)など。

デイリー新潮編集部