集まったレジェンドたち

 今年、球団設立から46年となる埼玉西武ライオンズ初のOB戦「LEGEND GAME 2024」が3月16日、本拠地ベルーナドームで行われた。1968年のドラフト同期で、共に草創期のチームを支えた東尾修氏(73)率いる「チームLIONS」と、田淵幸一氏(77)の「チームSEIBU」のもとに、総勢61人の懐かしいレジェンドたちが集結した。

「試合開始最初の打席が辻発彦・前西武監督(65)。マウンドは元ソフトバンク監督の工藤公康氏(60)、そしてキャッチャーが元ロッテ監督の伊東勤氏(61)ですからね。打った打球をショートの石毛宏典元オリックス監督(67)が現役時代よろしく、捕球すると華麗にすくい上げてファーストへ。80年〜90年の黄金時代が脳裏に蘇って……いや、本当に最高でした」(観戦した50代の会社員)

「伊東さんが小さく見えた。キャッチャーまでが遠くて……」とこぼしていた工藤氏だが、それでも最速121キロのストレートを放り、同じ元ソフトバンク監督の秋山幸二氏(61)には、全盛期をほうふつとさせるカーブで空振りを奪った。また、NPB初となる156キロを投げ「オリエンタル・エクスプレス」と呼ばれた郭泰源氏(61)もマウンドへ。伊東氏との黄金バッテリーの再現に、超満員2万7795人の観客は大歓声を送った。

「4回表の監督対決では、マウンドに立った東尾氏がバッター・田淵氏のインコースを攻め、4球目に足元に当ててしまいました。田淵氏はヘルメットを投げ、マウンドに向かっていくと、両軍ベンチから選手が飛び出してきたのですが……」(スポーツ紙記者)

 東尾氏は現役時代、執拗にインコースを攻めるケンカ投法で知られた。86年6月13日の近鉄戦(西武球場)では、近鉄のデービスが打ちにいった球を右ひじに当ててしまい、そのままマウンドへ突進、東尾氏に強烈な右パンチを浴びせた。乱闘になった場合、投手はけがを防ぐため、とにかく逃げるか周りの選手がカバーするのだが、なんと東尾氏も負けじと手を出して“応戦”した場面は有名。

「そんな東尾氏の現役時代では考えられない“土下座”でお詫びをしました。その後、田淵氏と笑顔で抱き合い、マウンド上で肩を抱き合って笑顔で記念撮影。あとでお二人が言うには、球団創設4年目の82年、初のリーグ優勝、そして日本シリーズで中日を破り日本一を決めて、銀座で飲んだ時以来だったそうです」(前出・記者)

 場内実況を担当した、文化放送の斉藤一美アナウンサーは「最高のデッドボールでした!」と二人を称えた。

80歳でライト前ヒット

 ファンにはたまらないイベントだったが、特に球場が盛り上がったのは1回裏。今回の出場メンバーで最高齢の土井正博氏(80)が打席に立った時だった。

「打席に入るとバットのヘッドを投手に向ける、往時の独特のフォームを見せてくれました。私の席の近くにいた60代と思われる男性は『いやあ、たまらないよ』と言って涙をぬぐっていました」(前出・会社員)

 土井氏は潮崎哲也氏(55)の3球目を、見事な流し打ちでライト方向へ打ち返した。もっとも、ライトの大友進氏(49)が1塁送球、ライトゴロとなってしまった。「無常の1塁送球でした」という斉藤アナの実況が球場内に流れる中、土井氏の満足そうな笑顔がオーロラビジョンに映し出された。試合後、特別賞を受賞した土井氏は、こう語って喝采を浴びた。

「80歳になりました。もう一度、西武の優勝が見たい。精一杯生きるので、何回優勝を見られるか楽しみです」

「天才アーティスト」と呼ばれ、現役時代に18年もの間、2ケタ本塁打を打ち続け、通算2452安打の記録を持つ土井氏は大阪出身。生まれて間もなく、父は戦死。母と姉の3人暮らしで、中学時代から家業を手伝い、親を楽にさせたいと、大鉄高校を2年で中退して1961年に近鉄入りした。翌62年のオープン戦で4番に抜擢され、「18歳の4番打者」として話題を集めた。81年、西武で現役を終えたのち、1軍、2軍で打撃コーチを務め、ライオンズを代表するバッターを育ててきた。その一人は、いまだ現役でチームを引っぱる「おかわり君」こと中村剛也(40)だ。

 23年8月19日、ソフトバンクとの試合で12号本塁打を打った西武の中村は、通産466本塁打となって465本の土井氏を抜き、本塁打記録の12位になった。中村は試合後「土井さんの記録を超えることができて嬉しいです。いろいろ教わりましたけど、俺の記録は抜いてくれと言われていました」と語っている。

「松井稼頭央・現監督(48)、中島宏之(41=中日)、秋山翔吾(35=広島)ら、西武を代表する選手を指導しています。でも、土井さんといえば、西武、巨人、オリックスで活躍し、土井さんの背番号3を継承した清原和博氏(56)でしょう」(前出・記者)

清原氏とレジェンドゲームに

 1986年、西武の1軍打撃コーチとなった土井氏は、同年入団の清原氏を指導することになる。高卒新人ながら、清原氏は開幕2戦目から1軍デビューすると5月から打ち始め、周囲は「新人王だ」「1年目で本塁打30本は狙える」と騒いだ。球団も期待を寄せる大物新人を育てる……その重圧から、髪の毛が白くなったという。

「かつての自身と同じ“18歳の4番打者”として抱える重圧や苦悩など、打撃技術以外の面でも親身になって向き合っていました。ただ、土井さんが『清原に申し訳なかったと今でも思っていること』として、自身のトラブルで最初の3年間しかコーチができておらず、死球になる際どい内角球のよけ方をちゃんと教えられなかったことを悔いておられました(「Number Web」2009年1月16日)。その後、清原氏は苦手の内角攻めに苦しむことになり、196死球という記録を残すことになります」(ベテラン記者)

 2008年10月1日。京セラドームで行われた対ソフトバンク戦が清原氏の引退試合となった。親交のあるイチロー氏(49)らも駆けつけたが、客席には土井氏の姿もあった。多くの弟子がいる土井氏だが、清原氏への思いも相当なものがあるのだろう。

「今回のレジェンドゲームでは、本当に多くのOBが集まり、久しぶりに見る選手もいて満足しましたが、正直なところ、清原氏と松坂大輔氏(43)の姿がなかったのは寂しいです。今年は土井さんの希望通りチームが優勝して、そして清原氏と一緒にグラウンドに立つ土井さんの姿を見たい。実現したら、本当に泣くと思います」(前出・会社員)

 多くのライオンズファンが、同じ気持ちなのではないだろうか。

デイリー新潮編集部