ロシアの原子力潜水艦

 冷戦期以降、北極のバレンツ海と並ぶ弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)のパトロール海域であり、その周辺には何重もの防衛網が張り巡らされて「要塞」化されていたオホーツク海。日本と隣接し、脅威にも感じるが、日本はどんな対露戦略をとるべきなのか。ロシアの軍事・安全保障を専門とする小泉悠氏が、朝日新書『オホーツク核要塞 歴史と衛星画像で読み解くロシアの極東軍事戦略』から一部を抜粋、引用部分などは削除し、再編集して解説する。

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■「カリブル化」されるロシア海軍

 聖域の防衛体制は(程度の差はあれ)冷戦期に比べて脆弱化している。そうした中で近年のロシア海軍が進めているのが「カリブル化」、すなわちカリブル長距離巡航ミサイルを水上艦艇から潜水艦に至るまで、あるいは小型艦から大型艦に至るまでのあらゆる艦艇に搭載するという方針だ。

 カリブルは2015年に始まったロシアのシリア介入作戦で初めて実戦投入され、2022年以降には第二次ロシア・ウクライナ戦争でさらに大々的に使用されて有名になった。その開発元はソ連時代から長距離ミサイルの開発で知られてきたノヴァトール設計局であり、対地攻撃バージョンの3M14の場合、450キログラムの弾頭を搭載して1500〜2000キロメートルを飛行する能力を持つとされる(このほかには対艦攻撃バージョンの3M54と魚雷を搭載した対潜型の91Rがある)。3M14カリブルは第二次ロシア・ウクライナ戦争でもロシア軍の空爆手段として多用されているから、ニュースなどでその名を目にしたという読者も多いだろう。

 コフマンとピーターセンが共通して述べるように、ロシア海軍が「カリブル化」に期待する役割の一つは、戦争が始まる前の段階(pre-conflict。ロシア式の軍事用語では「脅威期間」)において敵の開戦意図を挫くことである。ロシアの軍事思想や公式文書では核兵器の先制使用による開戦・参戦阻止の可能性が示唆されているが、同時にこれは思わぬ核エスカレーションを招く危険性をも孕む。これに対して通常弾頭型のカリブルを用いた限定攻撃を「死活的に重要な目標」に加えて警告のシグナルとし、ロシアに対する開戦の意図を挫くような方法、すなわち非核エスカレーション抑止(E2DE:escalate to de-escalate)型攻撃はこうしたリスクを可能な限り排除できる手段とみなされている、というのがコフマンとピーターセンの見立てである。

 もちろん、その手段はカリブルに限る必要はない。爆撃機から発射されるKh‒101などの長距離空中発射巡航ミサイル(ALCM)も含まれようし、将来的には航空機発射型のキンジャール(陸軍のイスカンデル‒Mシステムから発射される9M723短距離弾道ミサイルの空中発射バージョン)やツィルコン極超音速ミサイルの対地攻撃バージョンが加わることも予想される。

 実際、太平洋艦隊の戦力整備状況もこれに沿ったものである。ソ連崩壊後、ロシア海軍は巡洋艦や駆逐艦といった大型水上戦闘艦艇をほとんど配備できておらず、2010年代に入ってから登場した22350型(アドミラル・ゴルシコフ級)フリゲートも、現在のところ北方艦隊にしか配備されていない。ロシア海軍がそれぞれ1隻だけ保有している空母と原子力巡洋艦も同様である。

 これに対して20380型(ステレグーシチー級)コルベットや636・3型(改キロ級)といった沿岸戦闘艦艇の配備はそれなりのペースで進んでおり、しかもその全てがカリブル巡航ミサイルの発射能力を有している。さらにロシア航空宇宙軍は近く、極東のアムール州にもTu‒160超音速戦略爆撃機の基地を開設するとも報じられているから、既存の水上艦艇やSSGNに対するカリブル搭載改修と併せて、この種の長距離攻撃能力はかなり向上することを見込んでおかねばならない。

■日本の対ロシア戦略を考える――ロシアは日本のどこを叩くか

 ただ、コフマンとピーターセンが描くシナリオは、基本的にロシアとNATO(北大西洋条約機構)諸国の間でのエスカレーションを前提としたものであった。すなわち、欧州での局地戦争(例えば第二次ロシア・ウクライナ戦争)にNATO諸国が参戦して地域戦争化し、さらには米露間の全面核戦争を含めた大規模戦争へとエスカレートしそうな場合にカリブルによる非核E2DE型攻撃が登場するということである。

 一方、日露間における軍事紛争の可能性はそう高いものではない。係争地である北方領土をロシアが実効支配している以上、日本がこれを実力で奪還しようとするのでない限り、領土問題をめぐって日露が戦う可能性はまずないと考えてよいだろう。ロシア側にはこの点についてかなり疑り深い議論があるにはあるが、日本政府が北方領土の軍事的奪還を目指すだろうと本気で考える日本国民はそう多くないと思われる。少なくとも、いち日本国民としての筆者には、このようなシナリオはどうにも想像がつかない。

 では、ロシアが日本に大規模侵略を行う可能性はどうかといえば、これも相当に低い。ウクライナの場合、(1)民族・文化・歴史等を共有するウクライナはソ連崩壊後もロシアの強い影響下にあるべきだという民族主義的動機と、(2)NATO東方拡大をはじめとする冷戦後の西側陣営に対する振る舞いへの不満・屈辱感が結合した結果として、ロシアは侵略に及んだと考えられるが、日露間にはこうした事情がそもそも存在しない。海を隔てて隣り合う日露は近代に入ってからようやく邂逅したのであり、ロシアとウクライナのように「区別がつかないほど似ている」という関係にはない。また、ソ連はその欧州部から中央アジア部にかけて崩壊したのであって、極東では国境線の変更や新興独立国の誕生という事態は起こらなかった。要するに、ロシアが日本という国について強い執着を持ったり、同盟の拡大に関する強い不満を持つような余地が極東にはあまりない。

 このように考えていくと、太平洋艦隊の太平洋艦隊のカリブル化や爆撃機の増強は、欧州正面におけるそれと若干性格が異なるのではないかというふうに見えてくる。戦争のエスカレーションが行き着くところまで行き着き、米露の全面戦争となった場合にやることは同じ(つまり大規模核攻撃)であるとしても、それ以前の段階―─例えばロシアとNATOの間で通常戦争が勃発するような事態において非核E2DE型攻撃が行われるとするなら、それは欧州部に配備された三艦隊(北方艦隊、バルト艦隊、黒海艦隊)の役割になるはずであるからだ。

 では、結局、太平洋艦隊のカリブル化は何を意図したものなのだろうか。唯一考えられるのは、欧州での戦争が大規模戦争(米露の全面核戦争)にエスカレートする危険が生じた場合、オホーツク海の要塞を脅かしかねない日米の軍事力に対する能動防御型攻撃が発動されるというシナリオである。具体的には、日米の航空優勢獲得を阻止するための千歳・三沢・松島・小松・エルメンドルフ(アラスカ)等の戦闘機基地への攻撃や、米空母機動部隊の母港がある横須賀・ハワイへの攻撃、八戸・厚木等の対潜哨戒機基地への攻撃が想定されよう。

■「感じの悪い未来図」

 もちろん、以上は、いくつかの仮定を積み重ねた上での話ではある。例えばウクライナでの戦争がNATOとの地域戦争にまでエスカレートすることは現時点では可能性の領域に属するシナリオに過ぎないし、これが大規模戦争にまでエスカレートする可能性はさらに低い。

 同時に、このように言えるのは、エスカレーションの各段階において抑止力が働いているからに他ならない。以上で筆者が述べてきた未来図はいかにも「感じが悪い」ことは承知しているが、望ましくない事態を高い解像度で予測しておくのでない限り、導き出される抑止戦略は耳触りのよいスローガンの羅列に過ぎなくなってしまう。

 では、日本の対露戦略はいかにあるべきか。

 今度は逆に、最も望ましい未来図を考えてみよう。欧州での軍事的緊張度が低下して日露間の政治・外交・経済関係が再び改善し、中露の接近にも歯止めがかかる、といったあたりが概ね想定されるのではないかと思われる。これをエンド・ステート(達成されるべき望ましい状態)と設定するなら、日本の戦略にとって主な手段は外交や経済協力になる。

 ただ、実際に外交と経済を両輪として展開された第二次安倍政権の対露外交は明らかに失敗であった。安倍政権の主たる戦略は、首脳外交と8項目の経済協力プランによって日露関係を改善し、北方領土問題の解決とロシアの中国依存を軽減することであったと思われるが、これらの目的はいずれも達成されていない。そして、ロシアにおいてプーチン政権が継続する限り、このような状況は大きく変わらない、とここでは仮定することにする(もちろん、新たな外交・経済的アプローチで状況を変えうるとの考え方は成り立つが、本書のテーマ外である)。

 したがって、より現実的に想定されるエンド・ステートは、現状維持ということになろう。日露間には多くの懸案が残り続けるが、軍事的緊張をこれ以上高めることなく「冷たい平和共存」のようなものを維持し続けるということである。

 また、2022年に公表された『国家安全保障戦略』が述べるように、日本にとってより喫緊の課題は、中国の急速な軍事力拡張と北朝鮮の核・弾道ミサイル開発への対処と抑止であるとされている。したがって、ロシアとの「冷たい平和共存」を維持するための戦略は、対中国・北朝鮮戦略のリソースを圧迫するものであってはならない。これまで述べたとおり、ロシアからの直接的な軍事的脅威は決して高いものではないからだ。

■対露抑止力をどう構築するか

 以上から導き出される日本としての対露戦略はどんなものだろうか。概ね二つのレイヤーが想定されよう。

 まず、安全保障外交である。日露関係の劇的な改善が難しいという前提の下で考えるなら、求められるのは、(1)欧州においてロシアの次なる侵略を抑止することと、(2)抑止が破れた場合でも戦争のエスカレーションを避けること、(3)仮に(2)の事態が生じてもインド太平洋地域で中国や北朝鮮が冒険的な行動をとることがないよう抑止力を維持すること、の三点である。

 このうちの(1)と(2)において重要なのはユーラシアの東西における安全保障上の協力関係をより密にしておくことで、例えばNATOと日本の間における安全保障環境認識のすり合わせ(対話)、弾薬や戦略物資等の相互融通や機微技術の共同管理に関する体制づくり(制度化)が想定される。

 一方、(3)の眼目は、オーストラリアや韓国といった、直接的な同盟関係にない国々との間でも同様の体制を構築することで、米国の抑止リソースが欧州正面に集中投入されている状況下でも対中国・北朝鮮抑止力の低下を最小限に抑えることにある。

 次に、より軍事的な抑止戦略である。ここでの重点はロシアの能動防御型攻撃を比較的低いコストで無効化ないし低減できる能力に置かれねばならない。前述のように、日本にとってのロシアの脅威はあくまでも二次的なものだからである。また、日本は懲罰的抑止力(報復能力)の保有を現在まで認めていないから、これは拒否的抑止力(敵の攻撃が所期の効果を挙げない能力を持つことで抑止力とするとの考え方)に基づく必要がある。

 このように考えたとき、真っ先に選択肢に挙がるのは統合航空ミサイル防衛(IAMD)能力の獲得・強化であろう。有事に予想される航空機・巡航ミサイル・弾道ミサイルの集中的な攻撃に対処すべく整備が進められているIAMD能力は主として中国や北朝鮮の脅威を念頭に置いたものだが、これはそのまま、ロシアの能動防御戦略に対する拒否的抑止力としても機能しよう。

 繰り返すが、日露間における軍事紛争の可能性はそう高いものではない。抑止力の本丸はあくまでも中国と北朝鮮への対処なのであって、なるべく安く、「ありもの」で対露抑止の信憑性を高めることが日本にとっての戦略的課題と言える。