天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)

「環軸椎亜脱臼(かんじくつい・あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」と「敗血症性ショック」で長らく入院生活を続けていた天龍さん。今回は自宅療養中のところ、相撲時代やプロレス時代の話し相手について語ってもらいました。

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 相撲時代は同じ二所ノ関部屋の力士ではなく、よその部屋の力士とダベるのが好きだったんだ。特に若松部屋の大鷲、高砂部屋の富士櫻らとは親しく、よく話したもんだ。同じ部屋の力士と違ってわずらわしいこと、面倒くさいことはないからね。同じ部屋だと「昔はこう言っていたのに、今は違うじゃないか」とか言われたりして面倒くさい。

 大鷲と富士櫻は性格、相撲のタイプが似ているから話が合うんだ。俺たちは端的に言えば「真摯」に相撲に向き合っている者同士で、“情け相撲”を一切やらない奴に好意を持っていたんだ。一方で、情け相撲をする奴らはそういう者同士で意見が合うもんなんだよ。みんな田舎から出てきた奴ばっかりだから、自分と気が合う奴としか話し込まないんだ。

 情け相撲というのは「こいつ、今場所は勝ち越したいだろうな」「この一番は勝ちたいだろうな」って相手に情けをかけてしまうことだ。1対1の対戦だから思うところもあるだろうが、先天的にそう思うタイプは格闘技では100%の力は出せない。俺は相撲で金を稼ごうっていう貧乏タイプだし、部屋によってはそういう相撲を一切認めないところもある。

 富士櫻が7勝7敗から勝ち越したときに、客から「今日は情けをかけてもらってよかってね」と言われて、めちゃくちゃ怒って「俺は一切そういうことはしない! 余計なことを言いやがって!」なんて言っていたね。

 富士櫻は相撲界では清廉潔白で有名だったんだけど、知らないからそういうことを言う奴も中にはいるよ。ただ業界にいればあいつはどうだ、こうだって評判が立つから、あんな狭い社会では騙せない。

■相撲取り同士の会話はゴシップ!?

 相撲取り同士で話す内容はいつもくだらない内容で、よもやま話、ゴシップ話だ。「誰々にいいスポンサーがついた」とか「あの野郎、いい加減な相撲取りやがって」とか、そんな話ばっかり。

 二人ともよその部屋でざっくばらんだったし、二人のほうが俺より年上だけど、分け隔てなく、先輩風を吹かすわけでなく相手をしてくれて、「二人から認められたってことは、俺も清廉潔白、一生懸命相撲に向き合っているって認められたのかな」って嬉しかったよ。天覧相撲で昭和天皇が麒麟児と富士櫻の相撲を身を乗り出して見ていたってエピソードがあるくらい、外連味の無い相撲は周りを惹きつけるってもんだ。

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 富士櫻は泥まみれで稽古していたし、それを見て感銘を受ける力士もいる。俺は斜に構えてたから「あんなに泥んこになって。誰だってそれだけやれば強くなるよ」って見てたけど(苦笑)、だから番付は前頭まで。泥まみれになって、誰とでも稽古していた人はみんな上に行ったね。

 印象的なのは富士櫻、北瀬海、栃ノ海さん、栃光さん。みんな相応の地位まで行ったよね。大鵬さんだって、あんなに体が大きいから強いのは当たり前だと言われるけど、あれだけ稽古しているのを見たら誰だって納得するよ。稽古しない奴はそこそこにしかならないし、稽古は嘘をつかない。たった一人、稽古をしないで上に行ったのは龍虎関ただ一人だ。

■龍虎さんはちゃんこつまみ食い

 龍虎さんは俺たち相撲取りの話題にもよく上がった人で、下っ端のときはよその部屋に出稽古に行くと、ちゃんこのつまみ食いばっかりしてて、全然稽古しないって有名だったよ。それでも三役に上がったときは、すごい人だなと思ったもんだ。

 それからよく話題に上がったのが輪島さんだ。「リンカーン・コンチネンタルに乗って、いいスポンサーを見つけた」とか、とにかくスポンサーや金の話だったね。大きなスポンサーはすぐ噂になるよ。

 輪島さんの後援会のパーティーで、あるタニマチが「優勝おめでとう」と小切手を渡して、輪島さんも10万円くらいだと思って「ごっちゃんです」って受け取ったんだって。で、パーティーが終わった後に改めて小切手を見たらすごい金額で、慌ててそのスポンサーに最敬礼でお礼に行ったという話も当時は相撲取りの間で話題になったよ。

 当時の俺や金剛も、大鵬さんや輪島さんのそういう話を聞いていて、血眼でそういうスポンサーいないかって、鵜の目鷹の目で探すんだ。13、14歳のガキが相撲の世界に入って、百万円単位のご祝儀を目の当たりにするんだから、田舎の生活感がガラガラと崩れたっておかしくないだろう。すべて、ごっちゃん、ごっちゃんでご祝儀が入るんだから。

 プロレスに転向してからしばらくの間、俺の話し相手といえばもっぱら(ザ・グレート・)カブキさんだ。俺より先にプロレスに転向したロッキー羽田はすっかりプロレスラーとして完成されていて「あの花籠部屋の羽田光男があんなにうまくなっているのに、俺はうまくならない……」って悩んでいるときにカブキさんは親身になって話を聞いてくれた。

 多分、日本プロレスの芳の里さんが俺と同じ二所ノ関部屋の出身だから、彼にかわいがられたカブキさん、(グレート)小鹿さん、大熊(元司)さん、桜田(一男)といった系統の人たちが何くれとなく声をかけてくれたんじゃないかな。

 大熊さんとはよく飲んだけど、あの人はいつも二、三升は飲んでいたね。大きな声を出すわけでなく、暴れるわけでもなく、じっくり腰を据えて冗談を言いながら飲むのが好きだったよ。逆に小鹿は飲むとくどくなる(笑)。口数が多くなって、昔話とか説教に近い話が出てくるから、三沢(光晴)とか川田(利明)とか、越中(詩郎)は結構嫌がっていたんだじゃないか(笑)

 ほかの俺より先に全日本プロレスに入った、渕(正信)や大仁田(厚)、肥後(宗典)らとは口もきかなかったが、俺の練習にだけは、ああでもない、こうでもないって口を出してきてうるさかったよ(笑)

 そんななか、カブキさんが教えてくれたことをリングで一緒に練習してくれたのがハル薗田だ。彼も俺より先に全日に入ったのに、本当によくしてくれて、よく話もしたよ。いつもウェルカムで、試合のことも教えてくれた。フランクでどんな人にもわだかまりなく接する、本当にいい人で、ジャイアント馬場さんからもかわいがられていたよ。

 薗田は顔がゴリラみたいだからゴリちゃんってあだ名だったんだけど、一時期、マスクをかぶってマジック・ドラゴンとしてリングに上がっていたことがあった。その姿を見たうちの女房が「カッコいい! 本人はどんなに男前なの!?」って色めきたっていたんだけど、素顔を見て、まあ、驚いていたよ(苦笑)。

 家族の話で言えば、俺も女房も膝付き合わせてかしこまって話すのが苦手だから、どっちかが一方的にしゃべっていることがほとんど。女房もしゃべりたがりだから、膝付き合わせた状態で俺がしゃべっていると「あんた、それは」ってああだ、こうだ言い返してきて、俺が「うるせえ!」ってなるからね。女房もそれがわかっている(笑)。

 でも、女房はいつも俺の話を聞いて、ちょうどいいところで適当にいい答えを出してくれんだよ。彼女は客商売もしていて、俺よりも人生経験がはるかに豊富だからね。俺の人生経験はだいぶ偏っているから、補い合える関係だ。

 30代後半になって、楽ちゃん(三遊亭円楽、当時楽太郎)たちとようやく気楽な感じで付き合えるようになったね。それで銀座の「鮨処 おざわ」の親父や、楽ちゃんの友達だった仲間とよく飲むようになったんだ。

 楽ちゃんは芸人だし、他のみんなも経営者でいろんな人と付き合いが多くて、自分が知らない世界の話をあけっぴろげにしてくれるから、それを聞いているのが楽しかったよ。ほとんどがお姉ちゃん関係の話だったと思うけど、楽しい時間だったね。

 今の話し相手はもっぱら娘だ。俺がプロレスの話題にしか食いつかないから、ずっとプロレスの話しかしていない(笑)。まあ、現役時代は父として、プロレスで金を儲けて子どもにもいい恰好をさせてやろうという思いも強かったから、娘もプロレスの話しかなくなっちゃったね。やっぱり悪口が多いけど、罵詈雑言が俺の元気の源だからしょうがないか(笑)。

(構成・高橋ダイスケ)