力士時代の曙さん

 大相撲で史上初の外国出身横綱で、今月上旬に54歳で亡くなった曙太郎(あけぼの・たろう/旧名チャド・ローウェン)さんは、格闘技のK―1やプロレスなどでも活躍した。力士から格闘家に転向するきっかけとなったのは、当時のK−1プロデューサーだった谷川貞治さんの勧めだった。その後、大みそかの「世紀の一戦」に向けて曙さんは、K−1の創立者で現アドバイザーの石井和義さんが館長を務める正道会館に“稽古”で訪れたことがある。曙さんと親交の深かかった2人が、当時の曙さんについて語った。

 ハワイ・オアフ島出身の曙さんは来日後、1988年の春場所で初土俵を踏んだ。めきめきと頭角を現し、92年夏場所に初優勝し、場所後に大関に昇進すると、93年初場所で3度目の優勝を飾り、場所後には第64代横綱に昇進した。以来、8年間にわたって横綱の座を守り抜き、ライバルと公言した貴乃花と「曙貴時代」を築いた。2001年の初場所を両ひざのけがで全休すると、場所後に現役を引退し、東関親方(元関脇・高見山)が創設した「東関部屋」で部屋付の親方となった。

■大みそかの“格闘技合戦”で後れを取ったK−1

 親方として指導者の道を歩んでいた03年、34歳のときだった。親方という安定した生活を捨て、格闘技の世界に飛び込むきっかけがあった。

 当時の格闘技界は大きな盛り上がりを見せており、大みそかの格闘技番組は高い視聴率を記録していた。

 プロデューサーの谷川さんが、こう語る。

「2001、02年は『K−1』と『PRIDE』が協力して、大晦日は『イノキ・ボンバイエ』という格闘技番組をTBS系で放送していたんですが、2003年の大晦日は『PRIDE』をフジテレビに持っていかれたんです。日本テレビではアントニオ猪木さんが率いる『イノキ・ボンバイエ2003』を放送することになっていました」

 どの格闘技団体も、どれだけいい選手を集められるかが勝負だった。特にメインイベントにどんなカードを組めるかが、大会や番組の成否を決めるといっても過言ではなかった。テレビ局も視聴率を取るため、熾烈(しれつ)な競争を繰り広げた。

 谷川さんによると、その点で『K−1』は後れをとっていたという。

 選手の引き抜きなどもあり、メインイベントをだれにするかが決まらず、TBSではその年の大みそかはもう格闘技をやらなくていいかな、という雰囲気になっていました。悔しいから、何かTBSが納得するものを持っていきたいと思って」

 そのときに谷川さんが思い浮かべたのが、曙さんだった。

「アポなしで福岡県にいた曙さんに会いに行ったんです。それが03年の10月終わりか11月初めごろだったと思います。大みそかに『K−1』の番組を編成するにはギリギリのタイミングでした」

 谷川さんは早朝、福岡県の曙さんが親方を務める部屋の朝稽古に向かった。

「宿舎の前で曙さんの携帯電話にかけたんです。曙さんが『谷川さん、久しぶりです。何ですか』と聞いてきて、私は『実は今、宿舎の外にいるんです。申し訳ないけど、ちょっと出て来てくれませんか』と頼んだら、曙さんは『稽古が終わったら』と言って、しばらくすると出て来てくれたんですよ。その時すぐに、『大みそかにボブ・サップとやりませんか』と申し込みました」

■「奥さん以外の人とは相談しないでください」

 突然の出場依頼でもあり、怒られて断られるとも思っていたという谷川さんだったが、

「意外なことに、曙さんは『ボブ・サップですかぁ』と興味を持った答え方をしてきました。内心これはいけると思いました」

 谷川さんは、

「契約書もあります。詳しく説明しますので、今夜いかがですか」

 と曙さんを食事に誘うと、OKしてくれた。

 食事の席で谷川さんは、

「第二の人生を応援していきますから決断してください。奥さんとは相談してほしいけれど、それ以外の人とはしないでください。親方自身が決めてください」

 と説得したという。

「周囲に相談したら、きっと反対されるだろうと思ったからです。曙さんはその日に決断してくれました」

 曙さんに承諾してもらった谷川さんは、すぐに日本相撲協会から退職するための手続きについて調べた。大みそかまで時間がなく、急いで進めた。

「数日後には東京へ帰ってもらい、契約書にサインしてもらいました。日本相撲協会には退職願を出してもらって、その翌日にはボブ・サップと電撃記者会見を開きました。反響は大きかったです。契約は複数試合。単発ではなく、何回か試合をやってもらう形で、ファイトマネーは億単位でした」

 大みそかの「K−1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」は名古屋ドームで行われた。解説陣に、元横綱・貴乃花、元プロ野球選手・清原和博、柔道家の古賀稔彦と豪華な面々が顔をそろえた。ゲストにはブラジルの総合格闘家ヒクソン・グレイシーや女優の藤原紀香、長谷川京子らを招き、ハワイからの中継でプロボクサーのマイク・タイソンが出演、国歌斉唱に歌手のスティービー・ワンダーと小柳ゆきという豪華なキャスティングで臨んだ。

 試合のメインはもちろん「曙vs.ボブ・サップ」。超重量級の両者がぶつかるだけに、戦前から迫力ある試合になることをだれしもが予想していた。

■「自分、一発で倒しますから」

 1993年にK−1を創立し、現在アドバイザーを務める石井さんも、格闘家になって間もない曙さんを指導した。曙さんは、ボブ・サップ戦の前、石井さんの正道会館を訪れ、格闘技の練習をしたという。

「曙さんは運動神経がよかったです。本人もボブサップに対して自信があり過ぎるくらいで『大丈夫です。自分、一発で倒しますから』と言っていました。破壊力に自信があったんだと思います。うちの道場に、学生横綱を決める大会で3位くらいになった子がいたんですが、曙さんと相撲を取らせたら全く勝負にならなかった。曙さんは片手で投げていましたね。すごいなと思ったけど、やはり“たたきっこ”や“蹴りっこ”のルールとは違うんですよね」(石井さん) 

 試合は1ラウンドの3分になる直前、ボブ・サップの右ストレートを浴びた曙さんはリングに倒れて動かず、ノックアウト負けだった。

「曙さんはボブ・サップをコーナーまで押し込んだから、相撲なら押し出しで勝っていた(笑)。ただ、試合ではコーナーでボブ・サップにガードを固められ、粘られてパンチを打たれてしまった。相撲と違い、グローブをつけているので、手のひらでたたくのとグーでたたくのとでは打ち方も違うからね。難しかったんだろうな」 (石井さん)

 試合時間は短かったが、谷川さんは当時を思い出しながら興奮気味に話した。 

「『K−1』は、瞬間視聴率で史上初の『NHK紅白歌合戦』超えとなる43%を取りました」

2003年大みそかのK−1でのボブ・サップ戦。1ラウンドで敗れたが、デビュー戦で大きな話題となった
横綱時代の土俵入り(1997年)

 その後のK−1での曙さんの戦績は、1勝11敗と決して良い成績とは言えなかったが、元大横綱という経歴と知名度、持ち前のキャラクターの強さで、大きな注目を浴びていた。

「体重を落とすとある程度動けるようになるんで、もうちょっと体重を絞っていれば。だけど、体重が落ちなかったんですよね。180キロくらいまで減量してくださいと言っていたんだけど、なかなか落ちなかったんです。減量ができないと両ひざに負担がかかって疲れが出るんです」(石井さん)

 谷川さんも、

「ルール自体が相撲とは合わないというのがもちろんあるんですけど、身長2メートル超、体重200キロ超(引退当時)の曙さんは、体も大きくて、自分の強さに自信があったんです。いつも『大丈夫ですよ』と(笑)。おおらかで楽天的なんです。練習して体を作っていたらだいぶ違っていたと思います。私は『練習不足というより、運動不足ですよ』と言っていたくらいなんです(笑)」

 と曙さんとのエピソードを話した。

■プロレスでも大成した

 曙さんは05年に、戦いの場をプロレスに替えた。

「曙さんの日本の団体でのプロレスデビュー戦は、グレート・ムタ(武藤敬司)でした。負けたけど、曙さんはプロレスにすごく向いていると思いました。とってもうまいし、プロレスが好きだったんしょうね」 (谷川さん)

 その後、曙さんは武藤さんに弟子入りし、レスラーとしての教育を受け、師弟コンビでプロレス大賞最優秀タッグを受賞した。その後もプロレス界で大活躍し、新団体を立ち上げるまでに至った。

 そうした多くの実績を残した曙さんの原点となった相撲。そして、仲間であるハワイ出身の力士たち。前出の高見山、元大関小錦のKONISHIKI、元横綱の武蔵丸(現・武蔵川親方)、元前頭の戦闘竜らは身体能力が高く、相撲界に“ハワイアン旋風”を巻き起こした。

 そんな彼らがよく飲みに出かけた、両国駅近くのバー「ペーパームーン」のマスターはこう話す。

「小錦さんが曙さんや武蔵丸さんを連れて、うちの店にやって来たものです。ハワイ出身の力士はみなさんやって来てました。小錦さんは一生懸命、曙さんに厳しく稽古をつけていたようです。曙さんを、当時所属していた部屋まで走らせてましたよ。そうした厳しさもあって、曙さんは横綱にまでなれたんだと思います」

1993年、横綱昇進の伝達にのぞむ曙と東関親方(高見山)

 前出の石井さんは、

「曙さんは、相撲、格闘技を通じて、本当にみなさんに愛された人だった」

 と曙さんを悼んだ。

 力士として頂点に立ち、格闘家として挑戦し続け、プロレスでは数々のベルトを巻いた。明るい性格とおだやかな雰囲気を持ちつつ、強さと熱い思いもあった。

 ご冥福をお祈りいたします。

1997夏場所の千秋楽。曙が貴乃花をあびせたおしで破り、13場所ぶりに優勝を決めた瞬間

(AERA dot.編集部・上田耕司)