“赤いイチロー”の異名をとった広島・末永真史

 背番号「51」というと、今でもイチローを連想する人が多いはずだ。イチロー以降も、51番は広島若手時代の鈴木誠也(現カブス)の出世番号になり、巨人・浅野翔吾が「イチローさんに近づけるように」と自ら希望してつけたエピソードも知られている。その一方で、大成できずに終わった51番も少なくない。

“赤イチロー”の異名をとった俊足巧打の外野手が、広島・末永真史だ。

 佐賀東高から1999年のドラフトでイチローと同じ4位で広島入り。51番はチームの先輩・前田智徳が入団2年目までつけた出世番号でもあり、“前田2世”とも呼ばれた。

 03年9月27日の巨人戦で、上原浩治からプロ初安打となる右越えソロ。06年にも猛打賞を2度記録するなど、打撃センスには非凡なものがあったが、肉離れを繰り返して、なかなか1軍に定着できず、青木宣親(ヤクルト)ら同世代のライバルに差をつけられた。

 だが、「人はどうでもいい。自分がやることをやればという気持ち」で努力を続け、08年に22盗塁でウエスタン盗塁王を獲得。そして、翌09年にチャンスが巡ってきた。

 骨折で長期離脱の天谷宗一郎と入れ替わりで5月14日に1軍昇格した末永は、6月中旬以降26打数11安打と上昇気流に乗り、約4年ぶりの1番で起用された7月3日の横浜戦ではタイムリー2本を含む5打数4安打2打点で勝利のヒーローに。「積極的に行った。心掛けていることができた」と大きな手応えを掴んだ。

 同年は自己最多の73試合に出場し、打率.279、2本塁打、19打点。レギュラー定着も見えてきた。だが、翌10年以降は層の厚い外野陣に食い込めず、丸佳浩ら若手の台頭もあって、最後の2年間は1軍出場機会のないまま、12年オフに戦力外通告を受けた。

 自分より早く辞めることになった後輩を、前田は「どこで道を間違えたんかいのう」と惜しんだという。

 走攻守三拍子揃った外野手として00年のドラフト5位でダイエーに入団したのが、荒金久雄だ。

 PL学園時代は96年夏の大阪府大会決勝で2本塁打を放ち、甲子園でもセンターへの大飛球をフェンスに激突しながら好捕する超美技を見せるなど、強打堅守の3番打者として活躍。青学大でも1年後輩の石川雅規(ヤクルト)とともに99年リーグ戦春秋連覇、ベストナイン2度と野球エリートの道を歩んできた。

 だが、プロ入り後は、3年間で通算30打数5安打と打撃でアピールできず、“守備の人”と呼ばれた。そんなイメージを覆したのが、4年目の04年だった。

 同年6月22日の日本ハム戦、1点を勝ち越された直後の延長10回裏2死一、三塁、9回からレフトの守備固めで出場していた荒金に打順が回ってきた。

「いいイメージだけを考えて、思い切り行け!」と王貞治監督に送り出された荒金は初球から積極的に打ちに行き、ファウル4本と粘ったあと、カウント1-2から横山道哉の6球目、フォークをライナーで右翼線に運ぶ逆転サヨナラタイムリー二塁打。ナインはもとより、指揮官までが手荒い祝福の輪に飛び入り参加するほどの劇的幕切れを演出した打のヒーローは「(みんなに叩かれても)痛くないです。今まではベンチにいても人に頼っていた。今年はどんなきつい場面でも自分がいくんだと言い聞かせている。頑張ってきて良かった」と感激に浸った。

 同年は74試合に出場し、3本塁打、15打点をマーク。翌05年も、ロッテとのプレーオフ第2ステージ第3戦で、1対4の9回に代打で登場し、小林雅英から延長サヨナラ勝ちにつながる貴重な2点タイムリーを放った。

 だが、その後は多村仁の加入や長谷川勇也ら若手の台頭で出番が減り、10年シーズン途中にトレードでオリックスへ。イチロー退団後、オリックスでは51番が欠番になっていたため、背番号は「50」に。同年6月22日のロッテ戦で、チームではイチロー以来となる3打席連続二塁打を記録したことも因縁を感じさせられる。12年限りで現役引退。今季からソフトバンク4軍スタッフ(野手統括兼守備走塁コーディネーター)に就任した。

 イチロー登場以前には、51番は近鉄若手時代の土井正博、東映時代の大杉勝男もつけ、ホームランバッターのイメージもあった。その系譜を受け継いだのが、99年ドラフト3位で西武入りした大島裕行だ。

 埼玉栄高2年夏の甲子園で沖縄水産・新垣渚(元ソフトバンク‐ヤクルト)から逆転2ランを放つなど、高校通算86本塁打。プロ入り後も「バッティングでアピールし、51番を自分の背番号にしたい」と誓い、03年に7本塁打、開幕から5番を任された04年にも8本塁打と大器の片鱗をのぞかせた。

 だが、05年以降は、栗山巧やGG佐藤らの台頭で出番が減少。08年9月2日のロッテ戦でプロ初の4番を打ち、渡辺俊介から本塁打を放ったものの、好調は長続きせず、アーティストとして開花しないまま、12年を最後に通算23本塁打で引退した。

 大島とほぼ同時期に阪神で51番をつけた桜井広大も09年に12本塁打を記録したが、右肘故障に泣き、プロでは大成できず。桜井から51番を受け継いだ11年のドラフト1位・伊藤隼太も、実働7年で通算打率.240、10本塁打に終わり、“高橋由伸2世”、“ポスト金本知憲”の期待に応えることができなかった。(文・久保田龍雄)