はるかの忙しい平日の朝

平日の朝は、目が回るほど忙しい。

6時に起床して冷水で顔を洗い、歯を磨く。5分で化粧を済ませて洗濯機を回すと、キッチンへ直行して夫と自分の弁当を作る。

今日のおかずは昨夜の残りの筑前煮とポテトサラダに、夫の好物のニラ入りの卵焼き。彩りにブロッコリーとプチトマトを添えてふたを閉じると、ミル付きの全自動コーヒーメーカーに豆を入れ、夫のためのコーヒーを用意する。その間に洗い終えた洗濯物を乾燥機にかける。ベランダ干しがご法度のタワーマンションでは乾燥機が必需品だ。

次は、大きめのフライパンで朝食用の卵とウインナーを焼く。ほどよく火が通ったらIHコンロの火を止め、子供部屋に行って息子たちを起こす。

「ええっ、もうそんな時間。あと5分寝かせてよ」

素直な子供たちだが、寝起きが悪いのが玉にキズかもしれない。

時計を見ると7時。毎朝のルーティンだけに、今日も体内時計は正確そのものだ。寝ぐせで髪を爆発させた夫が起きてきたら、パンをトースターに入れ、淹れたてのコーヒーをたっぷり注いだマグカップを渡す。

「あぁ、寝足りない。やっと金曜日か。1週間が長いなぁ。」

42歳の厄年の夫は、髪の量こそ多いが最近めっきり白髪が増えた。

30分足らずの朝食が、家族全員が顔を揃える貴重なコミュニケーションの時間になっている。今朝の話題はマンションの自治会が主催する「桜まつり」だ。マジックや歌謡ショー、直売店、屋台などで賑わう桜まつりには、次男のサッカー教室のコーチを務める金沢さん夫妻が毎年出店している。

駅前でイタリアンバルを経営する金沢さんの屋台はホットドッグやナポリタンが名物で、高学年の児童数人がお手伝いをするのが慣例になっている。今年は5年生の次男にお鉢が回ってきた。好奇心旺盛な二男は“初めてのおつかい”ならぬ“初めてのお手伝い”が楽しみで堪らない様子だ。

「行ってきま〜す」

「あとはよろしく。今日の帰りは9時過ぎかな」

子供たちに続いて、夫が慌ただしく家を出て行く。

家族を送り出したはるかの行く先

1人になっても落ち着いてコーヒーを楽しむ余裕などない。汚れた食器を食洗器で洗い、その間に乾いた洗濯物を畳んで夫のワイシャツや息子の制服のシャツにアイロンがけをする。

そして、最後が家中の掃除だ。大枚をはたいて購入したマンションなのだから時間がないからと手抜きはできない。テーブルや窓をきれいに拭き上げ、全部の部屋に掃除機をかける。

ここまで終えて、ようやく出掛ける支度ができる。

月曜日から金曜日の9時30分から16時30分まで、隣区の大きなショッピングセンターのスーパーで品出しのパートをしている。夫の給料だけではとてもマンションの住宅ローンを返していけない。

自転車通勤で30分近くかかるが、自宅から離れたスーパーにしたのは、このマンションの住民に会うのを避けたかったからだ。パート割で値下げ品がさらに安く買えるのもありがたい。このマンションの食料品店は高過ぎて、とても買い物をする気になれない。

 

この日は親戚の子供に入学祝いを現金書留で送る必要があり、早めに家を出てマンション内の郵便局に立ち寄った。順番待ちの整理券を取ってソファに腰掛けようとすると、隣に地権者の増岡さんの奥さんが座っていた。

増岡さん家族が抱える秘密

最上階に住む増岡さんはとうに還暦を超えているはずだが、いつ会っても髪型やメイクは一分の隙もない。今日は明らかにカシミヤと分かる高級感のある明るいブルーのニットに、腰のラインを強調したグレーのタイトスカート。バイカラーのバッグはエルメスだろう。

「おはようございます」と挨拶したが、当然のように無視された。

 

増岡さん率いる高層階の奥様グループは、マンションの自治会の婦人会やイベントなどを仕切る“牢名主”のような存在だ。桜まつりでもお気に入りのレストランから料理人を招いてカフェを開いたり、フリマを開催したりしている。

「大規模マンションだからこそ、住民同士の交流を深めることが大事」と言う割には排他的で、私のような下々の者には絶対に声がかからない。マンション内のママ友の北村さんは、皮肉を込めて「殿上人」と呼んでいる。

けれど、私は知っている。古希を迎えた増岡さんの旦那さんが、経営する不動産会社の事務員を愛人にしていること。増岡さん宅の隣に住む実の娘が夫や子供そっちのけで歌舞伎町のホストに入れ上げていること……。誰にも人に言えない秘密はあるものだ。

先に用事を済ませた増岡さんが、こちらを見ることもなく出口へと向かう。

「お上品なふりして、とんだ色ボケ家族じゃない」

心の中で思い切り舌を出した。

●一家の住宅ローン返済がここまで苦しくなったワケとは? 後編で詳説します。

※この連載はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。