2009年に始まり、国の内外の映画作品の上映やお笑い、音楽ステージで沖縄県内を盛り上げてきた「島ぜんぶでおーきな祭 沖縄国際映画祭」が、16年の歴史に幕を下ろした。

映画祭を通じて、様々な作品が生み出されるなど、これまでのイベントの盛り上がりや、沖縄の映画界に与えた影響を振り返る。

2009年に始まった一大イベント

2024年4月20日、「島ぜんぶでおーきな祭 沖縄国際映画祭」の最後の2日間が開幕した。

第1回の開催からイベントを盛り上げてきたガレッジセールの2人が舞台に立った。

ガレッジセール ゴリさん:
16年前は一週間続けてやったんですよ。名だたる俳優さんとかいろんな方が来て、最初は北谷の白い砂浜にレッドカーペットを敷いて、海外から巨大スクリーンを船で何カ月もかけて運んできて。確かスイスだったかな。

笑いと平和をテーマに、映画を通して国境や人種を越えた人と人との結びつきを生もうと、2009年に始まった沖縄国際映画祭。

レッドカーペットでは人気俳優やお笑い芸人を間近に見ることができ、開催期間中は国内外の100本近い映画を鑑賞できる一大イベントだった。

2024年3月、中心的な役割を担ってきた吉本興業ホールディングスが、4月の開催を最後に実行委員会からの離脱を表明。

吉本興業の表明を受けて、実行委員会は委員会の解散を決めた。

来場者:
第1回の美浜のときから来ているので、寂しい気持ちです。1週間もあり、すごい楽しいなと思っていました。今回が最後と聞いて、絶対行かなきゃと思って、並んできました

来場した親子:
(沖縄でも)芸能人の方が多く来てくれて、いい刺激になるようなイベントだなと感じましたので、今回が最後と聞いて残念だなという気持ちもあります

いっぽう、映画業界の関係者からは、「映画祭を”経済の部分”と”文化の部分”の両方でみると、経済的にはそれなりに成功したと思うが、文化的な部分にはあまり効いていない」という見方を示す。

最後まで地域の派手なイベントで終わってしまった

映画祭でデジタル化した8ミリ映像を、解説を交えて上映してきた映画監督の真喜屋力さんは、「結局、最後まで地域の派手なイベントとして、ローカルイベントで終わってしまったという印象」と16年間の映画祭を振り返る。

真喜屋力さん:
「うちの映画祭でこの人が有名になったよ」となることで映画祭が世界から注目されて、そうすることで逆に映画祭も推したい人を推せる実力というか、評価の目を持っていると思われるわけだが、そういうことを全くしなかった

こうした一方、沖縄で開催される映画祭は、県出身の映画制作者の育成には大きく貢献したともみている。

真喜屋さんは、「毎年、地域発信型映画というものを沖縄県でいっぱい作り、短編を撮ることで、沖縄のスタッフの足がかりになった。照屋監督(ガレッジセール・ゴリさん)もそれを重ねていき、「洗骨」や、今年の映画など、長編を撮れるようになったところは、すごく評価されるところではないか」と一定の評価をした。

ゴリさんも数々の作品を制作

ガレッジセールのゴリさんこと照屋年之監督は、海外映画祭で数々の賞を受賞した「洗骨」の原案となった短編作品「born、bone、墓音。」など、この映画祭で上映してきた。

照屋年之監督:
短編映画でこれだけ定期的に撮り続けているのは、多分僕がずっと続けていると思います。僕が映画を撮っているのことを知らない人も多いと思うんですけど、知られていないのにやめなかった

沖縄が舞台の長編映画や県出身者が作る短編作品は、地元の人たちをひきつけ、映像作品の魅力を伝えてきた。

今回で最後となった映画祭。那覇市の会場では、映画祭で上映される作品を心待ちにしていた映画ファンの姿があった。

来場者の声
「沖縄の思いが詰まったいい作品が見られてよかったです。この雰囲気、みんなで盛り上がってる雰囲気とかすごくいいと思いました」
「自分で見に行こうと思う映画とかというのは、よほど何か強烈でちょっとインパクトがあったりとか、事前に評価を聞いてとかとするが(映画祭は)なんかすごく素直に映画が発信するメッセージみたいのを受け取れたと思います」

音楽やお笑いで沖縄を盛り上げた熱気と、開催をきっかけに生まれた多くの作品を残し、映画祭は16年の歴史に幕を下ろした。

(沖縄テレビ)