“下”を下げても痛みは減らない

お金がほしい。贅沢をするためのお金ではなく、健康を維持するためのお金が、必要な治療を受けるためのお金が、切実にほしい。

“「下を下げることで相対的に自分を上げたがる人」というのは少なくない。生活保護を例にとってもそうだ。生活保護費が働いている人の給料より高いという逆転現象が起きることがある。この場合、なぜか、普通に働いても生活保護費より少ない給料しかもらえないことを批判するのではなく、生活保護費が高すぎる、という批判が起きる。”

生きる意味を見失いかけていた最中に届いた、ヒオカさんの著書『死ねない理由』。本書で綴られた言葉の意味を、私も常々実感している。「お金がない」と言えば、「もっと苦しい人はいる」と言われる。「後遺症が辛い」と言えば、「でも働けているんだから」と言われる。「生きるのが辛い」と言えば、「生きたくても生きられない人もいるのに」と言われる。

正直な思いを吐露するなら、それらすべてに「うるせえな」と思っている。自分より苦しい人、大変な人がいることなど言われるまでもなく知っている。知った上で、それでも苦しいのだ。救われたいのだ。だからこそ、「どうして」と思う現実を変えたいと願い、虐待や性被害、貧困の実態を広く知ってもらうために文章を書いている。それなのに、なぜか上記のような言葉で黙らせようとしてくる人は一定数存在する。


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「もっと我慢しろ」「もっとわきまえろ」「もっと申し訳なさそうにしろ」

そういう圧力を感じるたび、「絶対に黙ってなんかやらない」と強く思う。そもそも、痛みや辛さは他者と比べるものではない。当然ながら、余命わずかな人の前で希死念慮を口にしないくらいの分別は持ち合わせている。だが、見知らぬ他人が「生きたくても生きられない辛さ」と「生き続けることが辛い」側の痛みを己の物差しでジャッジするのは傲慢だろう。どちらも辛い。当事者にとっては、それが真実だ。