元阪神の工藤一彦氏は少年時代から規格外…際立った快足、小6で180センチ近かった

 甲子園球場で伝説の“バックスクリーン3連発が”飛び出したのは、1985年4月17日の阪神対巨人だった。1-3の7回にランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の阪神クリーンアップが爆発したが、これによって7回3失点の好投が報われ、勝利投手となったのが工藤一彦氏だ。1974年ドラフト2位で土浦日大から阪神に入団。先発、リリーフにフル回転で虎を支え続け、その大きな体から「ぞうさん」と呼ばれた右腕は、少年時代から規格外の逸材だった。

 プロ9年目の1983年には阪神のエースとして13勝をマークした工藤氏は1956年5月20日、青森県で生まれ、茨城県筑波郡谷田部町で育った。野球との“出会い”は「島名小学校3年くらいにソフトボールでショートを守った記憶がある。始まりはそれなんじゃないかな」。プロ野球は巨人ファン。「誰のファンといえば高田(繁)さんが好きだった」という。

 小学校の時のソフトボールは遊び程度ながらも、自然とのめり込んだ。もとより運動神経は抜群。なかでも際立っていたのは俊足ぶりだ。「運動会とかで走ったらいつもトップ。あまりにも速すぎたから、小3の時に6年生を相手に走らされたけど、それでもトップだった」。体の大きさも図抜けていた。「小学校6年の時には180近くはあったと思う。めっちゃ、大きかった。先生よりもデカかったんじゃないかな」と振り返った。

「健康優良児ということで学校の代表にもなったけど、制服とか、紅白帽とかが似合わない子どもだったよ」と工藤氏は笑う。「でも悩みもあった。大きいからけいれんを起こすんだよ。骨が伸びるんだろうな。成長痛かな。筋肉がつるから『お母さん、助けて、助けて』って言っていたなぁ……」。中学では軟式野球部に入部しながら、陸上の大会にも出場する“二刀流”。しかも、その両方で結果を出していた。

「高山中学校に入った時は180センチを超えていたと思うけど、野球部の3年生が俺のところに来て『手を握ってくれ』と言われて、ぎゅっと握手したら『わかった。明日から野球部な、ピッチャーやれ』って。それで野球部に入った」。それまでの高山中野球部はコールド負けばかりの弱いチームだったが、工藤氏が入部してから勝つようになったという。

「俺は足が速くて、バッティングもよかったしね。でも、グラウンドのレフトの上のところにある桜の木を越してもホームランにはしてくれなかった。二塁打だって。わけがわからなかった。何でって言っていたのを覚えているなぁ。しょうがないから、二塁打で出て三盗して、スクイズで1点を取った」。あとは工藤氏が相手打者を牛耳るだけ。「大会で、7回17奪三振の記録も作った。負ける時はエラー絡み。あまり点を取られた記憶がない」というからすさまじい。

「暁の超特急」吉岡隆徳氏からスカウトも…野球を選択

 加えて陸上の方でも「郡の大会では中学1年の時から100メートルは優勝。走り幅跳びもそうだったかな。県大会にも出て、周りはみんな陸上の専門のやつばかりだったけど、走ったら1着だった」と抜群の成績を残した。中学3年の時には野球だけでなく、陸上でも高校から声がかかった。1932年ロサンゼルス五輪の100メートルで6位入賞し「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳氏にもスカウトされたほどだ。

 そんな中、工藤氏は野球を選択した。「陸上はウチの親父が反対したからね。今の時代なら陸上も目立つけど、当時はそうでもなかったからだと思う」。尊敬する父・造(つくる)さんの考えに従った。「その頃の俺はまだ子ども。体は大きいけど、世間のことは何もわかっていなかったからね」。野球で東京や名古屋の有名高校から誘われながら、土浦日大を選んだのも「父が『お前は茨城県人だから、茨城県の学校に入らなければいけない』と言ったから」という。

「その時、俺は知らなかったんだけど、ウチの父も実は昔、陸上の選手で全国大会にも出ていたし、青森で中学校の理科の先生をやっていた時には野球部の監督もやっていた。そのことは後で知った。だから父は野球も陸上のこともよくわかっていたんだと思う。土浦日大に決める時も『これから野球が強くなるのは私学だ』って言っていた。『甲子園は努力しないと無理だぞ』って言われた記憶もある……」

 もしも、この時に陸上の道を選んでいたら、阪神で2桁勝利をマークしたり、伝説のバックスクリーン3連発試合の勝利投手になったりの野球人生そのものがなかったかもしれない。「ウチの父は先見の明があったと思う」と工藤氏はしみじみと話す。父の考えに従って良かったと思っているし、道筋をつけてもらって感謝している。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)