日本時間の5月7日に行なわれたAppleのスペシャルイベントでは、新しいiPad AirとiPad Proが発表された。加えて最新のM4チップやApple Pencil Pro、Final Cut Pro 2も発表され、大きな話題を呼んだ…とは言いがたい。

 iPad Proの広告動画として公開された「Crush!」について、多くの人が不快感をあらわにし、むしろそちらの話題の方がメインになってしまったからだ。

 すでに動画をご覧になった方も多いと思うが、大きなプレス機にトランペットやピアノ、カメラのレンズ、キャラクターなどが次々に潰されていき、ぺちゃんこになったあとにiPad Proが現われるという演出であった。

 表現したいことはわからないではない。それら多くのツールが圧縮されてこの1台に、と言いたいのだろう。今回のイベントは7日23時にスタートしたが、動画の公開直後から早々にXではネガティブな反応が次々と投稿された。

 5月10日にはAppleから謝罪声明も出され、動画もやがて見られなくなるかもしれないが、今回はこの演出がなぜ多くの人に受け入れられなかったのか、特に日本で大きく反感を買ったのはなぜなのか、そうしたことを考えてみたい。

●「破壊」という表現の由来

 これらの反応は日本特有のものなのかというと、そういうことでもないようだ。エンタテイメントビジネスを報じる米国メディア「VARIETY」では、8日のお昼過ぎにはすでにあの動画に問題があったと、フィルムクリエイターの見解を報じている。Appleのニュースをメインに扱う「Apple Insider」も同様だ。Tim CookのXアカウントには、多くの嫌悪感を示すコメントが付けられていると指摘している。

 ただ、ポイントはそこではないという層もあるようだ。現在TikTokでは油圧プレス機でモノを潰す動画が流行しており、これをパクったのかといった批判も目立っている。また韓国LGが15年前に発表したKC910の広告との類似性を指摘する声もある。

 かねてAppleはプロモーションにおいて、モノを壊すという表現を取ることが多い。そもそもMacintoshが世に出るきっかけとなった広告は、1984年のスーパーボウルで公開された、リドリー・スコット監督による「1984」だった。これはジョージ・オーウェルのSF小説「1984」にインスパイアされたものである。当時の大勢を占めていたIBM PCの象徴ともいえる「ビッグ・ブラザー」が映し出されたスクリーンを若い女性ランナーが破壊して、旧態依然としたコンピュータユーザーを解き放つというストーリーだ。

 1997年にAppleに復帰したスティーブ・ジョブスは、1998年にG3 Powerbookの広告として、WindowsノートPCをロードローラーで押しつぶすという表現を再び用いた。共通するのは、現状のスタンダードを破壊するという表現である。

 イノベーションには、2つのタイプがある。1つは、持続的イノベーションだ。これは以前のものを下敷きにして少しずつ階段を登るように改善・改良を積み重ね、最終的に大きな成果を得るというもので、日本企業が得意とするアプローチである。

 もう一つは、破壊的イノベーションだ。これは既成概念や慣習を打ち破り、一気に新しい価値や基準を打ち立てる方法で、そのやり方は急進的で革新的に見える。

 Appleが得意としてきたのは、言うまでもなく破壊的イノベーションである。その表現方法として、これまでのスタンダードを破壊するというプロモーションは、効果的であった。

●マイノリティではなくなったApple

 これまでAppleが行なう破壊的な表現のプロモーションが、大きな問題にならなかったのはなぜか。それは、Appleがマイノリティだったからである。

 スタンダードを破壊するという表現手法が成立する大前提は、破壊を行なう側はスタンダードではないはずだ。弱者がスタンダード(体制)に逆らうから、人々は共感し、その立ちむかう姿に感動する。1984年にしても1998年にしても、まだAppleはiPhoneどころかiPodすら発売しておらず、コンピュータ業界ではマイノリティだった。

 だが現在のAppleは、マイノリティではない。特にiPadは、タブレット業界ではスタンダードなポジションにあり、AndroidもWindowsも息も絶え絶えといって過言ではないほど、明らかに強者の側に立っている。

 つまり1984年で描かれた「ビッグ・ブラザー」は、タブレット業界においてはもはやAppleなのである。絶対的強者が、既存のものを力尽くで破壊していくという表現は、支配であり、強制のように見える。

 もう一つ受け入れがたい理由として上げたいのは、この表現が「文化」に対する理解のなさや軽視を感じさせるからである。

 例えば最初に破壊される、トランペットを例に上げてみよう。筆者は娘が吹奏楽部でトランペットを吹いていたので、この楽器の難しさや奥深さ、あるいは楽器の値段といった情報を持っている。

 現代はデジタルシンセサイザーやサンプリング技術により、トランペットの音を再現するのは造作も無いことだ。だが、なぜ楽曲の中でトランペットの音が必要なのか。

 それは、トランペットの持つ音色、それがあることで出現する雰囲気、いわゆるトランペットらしい表現が欲しいからである。つまりトランペットが背負っている文化や、それが使われてきた楽曲の完成度といったバックグラウンドを、借用するわけだ。いくら「音」がそっくりでも、トランペット「らしさ」をもって使わなければ、トランペットには聞こえないし、トランペットの音を使う意義もない。

 さらにいえば、シンセサイザーでトランペットの音を使うのは、本物のトランペッターを雇う金がないとか、自分がトランペットを演奏できないといった事情があるからだ。つまりは代用品なのである。本物の表現は、本物のトランペット上にしか存在しない。

 こうした「本物」を破壊して、これからは代用品で十分ですよ、iPadでやれますよと言うのであれば、その意見には同意できない。

 日本においては、文化を継承する担い手に職人的な気質があることは、広く理解されている。楽器やレンズは、芸術を表現するためのただの道具に過ぎないが、道具を大切にしない職人が上手いはずがないということもまた、理解されている。つまり、芸術家や職人とともに、道具もリスペクトするのは当然という文化がある。

 破壊される古い楽器やレンズは、それらの道具を愛する人たちをも象徴しており、そういう人たちもAppleによって駆逐される側に回るのだ、という意味に受け取れる。この動画に対し、文化に対するリスペクトが無いとまず日本から意見が出てきたのは、当然であろう。

●「相互理解」が得られる世界線へ

 この騒動の初期段階では、こうしたことで不愉快になっているのは日本人だけ、アメリカ人は気にしていないという論調も多かった。それは事実かもしれないが、気にする方が間違っているのだとも思えない。

 それよりもむしろ、こうした「表現のまずさ」に、芸術やクリエイティブとは直接関係ない沢山の日本人が気づいて指摘したという事実は、非常に重要だと考えている。そこからさらに、なぜ不愉快に感じるのかと分析に進む人、どうすれば良かったのかといった解を探す人が少なくない数出てきているのを見ると、「転んでもタダでは起き上がらない人」の多さが、日本の財産であろう。

 この動画が公開される前には、多くのApple社員にもプレビューされたものと思われるが、こうした「表現のまずさ」が大きな問題になるとストップがかからなかったのは、残念である。例えば同じ米国企業のAdobeなら、こうした直接的な破壊的表現を自社のプロモーションとして展開しただろうか。Adobeの破壊的表現に対する見解は、ここで読むことができる。

 この違いは、その企業が常時どれぐらいアーティストと近いところにいるか、あるいは社内にどれぐらいアーティストがいるか、というところに現われるように思える。ハードウェアでもソフトウェアでも、アーティストが使うツールを作るのであれば、アーティストの魂、というと大げさだが、心情・マインドを理解するという一面をもなければならない。

 私たちは地球の上で、全員が同じ役割を果たさなければならないわけではない。テクノロジーで人類の未来をガンガンに切り開く人達もあれば、文化を熟成させることで人類の発展に貢献できる人達もいる。要するに分担・手分け・パートナーシップの問題だ。

 より良い社会とは、こうした役割が正しく相互に理解される必要がある。