「ここからですね、人生がおかしくなったのは……うふふふ」
チャーミングな笑顔とともに、アメリカ・シリコンバレーでの出来事を振り返る一人の女性。パソコンやスマホなどデジタル機器を使いこなし、政府主催の会議や地方での講演を精力的にこなす。その様子は、今時のキャリア女性そのものだが、彼女の年齢が88歳だなんて、信じられますか?
「メールだと、飛行機に乗っているとき以外ならいつでもお返事できますから、メールで連絡をやり取りしましょう」
昨年11月、取材日程の打ち合わせで、若宮正子さん(88)はこう話した。
「ただひとつ問題がありまして、ものすごくスケジュールが……」と、iPhoneで、Googleカレンダーをひらく。
12日 新潟県上越市、13日 福島県白河市、14〜15日 北海道函館市、16日 徳島県阿南市、17〜18日 岡山県岡山市、19〜20日 大阪府大阪市、21日 神奈川県藤沢市、22日 秋田県秋田市、23日 滋賀県大津市、24日 滋賀県米原市……。休日はおろか、移動日もないほどカレンダーは講演やイベントの予定で埋め尽くされていた。
「スマホのカレンダーをパソコンと同期させて、出先でもわかるようにしているのですが、まあ、ほとんど全部、ふさがっておりまして、果たしてこれで時間がとれるかどうか」
昨年米寿を迎えた若宮さんだが、81歳のときにゲームアプリを開発したことで人生が激変。全国の自治体の講演会に引っ張りだことなり、政府の「デジタル田園都市国家構想実現会議」に有識者として参加、さらにはデジタル庁の仕事を手伝うなど、多忙を極めている。これらのスケジュール管理、新幹線や飛行機のチケットや宿の手配、講演会場までの移動は、すべて若宮さんが一人でやっている。
「ワンオペのほうが気軽ですよ。この前は、鳥取で講演が終わって、翌日の富山県氷見市の講演の準備のため地元の神奈川県藤沢市に帰ろうと思ったのですが、突然空港が閉鎖に。講演会をキャンセルするわけにはいきませんから、ネットで調べてすぐにJRの駅までタクシーで移動。伯備線の最終電車で岡山まで行って、そこから新幹線で大阪まで。そこで宿泊して、翌朝の特急サンダーバードに乗れば氷見まで行けることがわかったんです。私、鉄オタでもあるんですよ(笑)」
いたずらっぽくほほ笑んだ。
■高校を卒業して就職した銀行では仕事ができない“お荷物”行員だった
昭和10年、東京都杉並区生まれ。昭和29年に高校を卒業して就職したのが三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)だった。
「私は空気が読めない、というか、空気を読まないダメ行員でしたね」
そもそも女性の求人が少なかった時代、当時花形だったデパートの初任給が7千900円、それに対して三菱銀行は8千200円だった。どうせなら月給が高いほうがいいという理由で銀行を選んだ。
「当時の銀行の業務は、機械化もコンピューター化もされていなくてすべて手作業。計算はそろばん、お札は指で数え、お客さんの通帳に名前を書くときは、インクとペン……。江戸時代とほとんど変わりません。私は生まれつき右手があまり動かないこともあって仕事が遅かった。『まだ終わらないのか』と先輩から叱られることも多く、落ち込む日々。まあ、よく辞めさせられないで済みましたね」
自らを“お荷物”だったと話す若宮さんだが、時代が味方する。まず、銀行に電動計算機が導入され、そろばんを使わなくても計算ができるようになった。さらに紙幣計算機が入ってきて、指で紙幣を数える必要もなくなった。
銀行はどんどん機械化が進んだ。さらに……。
「コンピューターが初めて銀行に来たときのことはよく覚えています。大切な機械だから壊しては大変だと、コンピューター室に入るときにはスリッパに履き替えさせられました。機械に触るのは、専門の人だけ。私たちは遠巻きに“なんだかすごい機械らしい”と話していました。でも、計算もお札を数えるのも、人間に代わって機械がやってくれるようになって、私はようやく“お荷物”行員じゃなくなったんです」
彼女が働いていたのは高度経済成長期の真っただ中。女性は数年勤めたら寿退社するのが一般的。夫は外で働き、妻は家庭を守ることが当たり前だった。
「お付き合いした人もいましたが、私は結婚を選択しませんでした。30代、40代になっても結婚しないなんて、という風潮もまったく気になりませんでした。人さまに迷惑をかけているわけでもないし、法を犯しているわけでもない。空気を読まなければいいんです」
新商品や業務改善策などを本部に企画提案していたら企画開発部に異動になった。
「私は、小さいときからひらめくことが多いので、企画の仕事は合っていたのかもしれません。自動振替サービスの開発など新しいアイデアが次々と浮かびました。不器用さに落ち込んでいた新人時代がうそのように」
男女雇用機会均等法が施行された昭和61年には、同行で初の女性管理職に。そんな彼女にはもう一つ“空気を読まない”エピソードがある。
「銀行員だったころの楽しみのひとつが海外旅行。当時は有給休暇を使い切る人は珍しかったのですが、私は有給休暇をばっちり取って、ひとり気ままな旅をしていました。その分、仕事をしているときは、人を自分と比べることも、他人のことを気にかける暇も惜しんで仕事にのめり込んでいましたけどね。そんな私を周囲は面白がってくれたのでしょう」
若宮さんは、定年の60歳まで銀行を勤め上げ、さらに子会社で嘱託社員として62歳まで働いた。
■私は“不良”介護人だから、母の介護で家にこもっている間にパソコンにはまった
退職する数年前、当時90歳近かった母・鶯子枝さんに認知症の症状があらわれ始めた。父を早くに亡くした若宮さんはずっと母とふたり暮らしだった。
「いつもの通勤電車が事故で遅れたので、『2時間ぐらい帰りが遅くなる』と母に電話を入れました。でも、家に着くと母がいない。近所を捜しまわっても見つからない。困り果てて警察に駆け込むと、母は自宅から4キロ離れた場所で保護されていました。『娘が死んじゃった』と泣いていたそうです。退職したらなるべく家にいないといけないなと思いました」
彼女には、2人の兄がいるが、結婚して独立していた。重くのしかかる母親の介護……。さらに話を続けてもらおうとすると、若宮さんは「ほらほら」とこう続けた。
「取材する人は『さぞ大変だったでしょう』と、介護を美談として聞こうとするんですよ。とくに婦人雑誌の人は、苦労したに違いないとしつこいけど、そんなに困ったことは本当に思い出せないんです。たしかに母は、もの忘れがひどかったけど、前日と同じおかずを出しても、毎回おいしいと食べてくれるから助かりました。忘れるっていい面もあるんですよ。
それに私は“不良”介護人ですから、おやつを忘れることなんかしょっちゅう。1週間ぐらい母を預かってくれるショートステイを利用して、海外旅行にも行っていました。そのころだって『親を置いて旅行に行くなんて』と言う人がいたけど、そんなことに耳は貸しません。それでも母は100歳まで生きたのだからよかったんじゃない」
自宅にこもって母親の面倒をみることで社会とのつながりが減る人は少なくないが、その不安を解消してくれたのがパソコンだった。
「私がパソコンを買ったのは平成5年(’93年)だから、誰にでも扱いやすい『Windows95』が発売される前だったので、パソコンを持っている人はごく一部。でも、いろいろな人とコミュニケーションがとれるというのが魅力で。家に閉じこもってしまい、人と自由に会えなくなるのが不安だったんです」
周辺機器を含めると40万円ほど。衝動買いだった。
「私の周りには『それだけのお金があったら桐のたんすに上等な着物が買えるのに』と言う人もいましたが、もちろん取り合いません。とはいえ、パソコンなんて会社でも触ったことがなかったから、使えるようになるまで3カ月ほどかかりました。そして、パソコン通信のシニアコミュニティ『エフメロウ』に入会しました」
母の介護のかたわら、シニア向けのコミュニティでデジタルの知識を身につけた。若宮さんいわく「聞けばなんでも教えてくれるインターネットの老人会」だったとか。俳句や都々逸といったアナログな趣味も広がった。
そして、このエフメロウはインターネットの普及とともに「メロウ?楽部」と名前を変え、その立ち上げに若宮さんも関わることに。今では、新しい仲間に、デジタルを楽しく遊んでもらうための手伝いをしている。
「たとえば表計算ソフトのエクセルについて、普通シニア向けの講座では家計簿や血圧をグラフ化する方法を教えています。マニュアルや手順を覚えてもシニアにとってはちっとも楽しくありません。エクセルって、縦横に線が引いてあって四角い箱が並んでいるように見えますよね。ふと、そこに色を入れたら面白いんじゃないかと思ってエクセル・アートを試してみました。絵心のない私でも面白い文様ができるし、パソコンを使ってみようという気になれるはずです」
当初は「(そんなものは)エクセルができない人がやるものだ」とバカにする声もあったが、なんと開発元のマイクロソフト社から「エクセルの新しい分野を開拓した」と絶賛されることに。そんなエクセル・アートでデザインしたドレスを着て、平成最後の秋の園遊会にも参加した。
【後編】最高齢アプリ開発者・若宮正子さん(88歳)ティムクックにも直談判! 81歳からの超サクセスストーリーへ続く
世界最高齢アプリ開発者・若宮正子さん(88歳)銀行員時代はそろばんができない「お荷物」行員だった
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