ホンダとアストンマーチンがパートナーシップを組み、2026年シーズンからF1に挑むことが発表された。これでホンダはF1に正式復帰することとなり、アストンマーチンはF1のチャンピオン獲得に必要不可欠と言ってもいい、ワークスパワーユニット(PU)を手にすることになった。

 ただ両者が手を携るのは、これが初めてではない。ホンダが2019年にレッドブルへのPUを共有し始めた際、チームのタイトルスポンサーはアストンマーチンであり、マシンには同社のロゴが入れられていた。

 ただ両者の関係は、その限りではない。アストンマーチンF1は、元々レーシングポイントだったチームの名称を変更して誕生した。このチームの遍歴を遡っていくと、フォースインディア、スパイカー、ミッドランドを経て、ジョーダンへと辿り着く。

 このジョーダンは、エディ・ジョーダンが立ち上げ、1991年からF1への参戦を果たしたチーム。素性の良いクルマを生み出すことも多く、中団グループの雄として、存在感を放っていた。ミハエル・シューマッハーやルーベンス・バリチェロ、エディ・アーバインらがデビューしたのもこのジョーダンだった。

 そのジョーダンは、2001年と2002年の2年間、ホンダのエンジンを使っていたことがある。

 ジョーダンは1998年から、無限ホンダエンジンを使用。その年にはデイモン・ヒルがベルギーGPで優勝。ジョーダンに最初の勝利をもたらすことになった。翌年にはヒルとコンビを組んだハインツ-ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げ、一時チャンピオン争いに加わる活躍を見せた。

 その翌年となる2000年、ホンダは1992年限りで終了していたF1活動を復活させ、BARにエンジンを供給することになった。エディ・ジョーダンは、さらに成績を向上させるためにホンダとの契約を求め、BARから遅れること1年、2001年からホンダのエンジンを手にすることに成功した。

 同年のマシンEJ11は出来が良く、シーズン開幕前のテストでは好タイムを連発し、上位争いに加わることが期待された。開幕直後もフレンツェンとトゥルーリが安定して入賞した。

 しかしシーズン中盤以降はリタイアも増え、シーズン序盤のような結果をなかなか手にできなくなった。その結果、フレンツェンは第11戦イギリスGPを最後にチームを去り、リカルド・ゾンタが1戦走った後、第13戦ハンガリーGP以降はジャン・アレジがドライブするなど、ドライバーラインアップ的には非常にバタついた1年となった。

 またエンジニアらチームスタッフも多く離脱することになったため、期待した通りの成績を手にすることができなかった。

 2002年はドライバーラインアップが一新。ジャンカルロ・フィジケラと、ルーキーの佐藤琢磨というラインアップになった。

 佐藤琢磨は2001年のイギリスF3で、圧倒的な強さでチャンピオンに輝き、鳴物入りでF1デビューを果たすことになった。

 しかしこの年のマシンEJ12のパフォーマンスはそれほど高くなく、開幕直後から苦戦することになった。それでもフィジケラは、オーストリアGP、モナコGP、カナダGPと3戦連続で5位入賞。ハンガリーでも6位に入った。

 一方佐藤はなかなか噛み合わないレースが続き、無得点のままシーズン最終戦の日本GPを迎えることになった。

 その日本GPで佐藤は、予選7番手を獲得。決勝でも力強い走りを見せ、5位入賞を果たした。その走りに、鈴鹿サーキットは興奮の坩堝と化した。

 この佐藤の5位入賞で、チームはジャガーを抜いてコンストラクターズランキング6位を獲得。同じホンダエンジンを使うBARよりもふたつ上の順位を手にした。

 しかしこの年限りでジョーダンはホンダエンジンを失ったばかりでなく、(2003年のブラジルGPでフィジケラが奇跡の優勝を手にしたが)戦闘力は徐々に低迷していくことになり、2005年を最後にジョーダンの名はF1から消滅。その後、ミッドランド、スパイカーを経て、フォースインディアへとオーナー権と名称が次々に代わり、そして現在のアストンマーチンに至った。

 アストンマーチンF1は最近まで、ジョーダン時代のファクトリーをそのまま使っていた。しかし大量の投資が行なわれ、最新のファクトリーと風洞施設が建設中。さらには市販車メーカーのアストンマーチンをもローレンス・ストロールが買収したことで、ブランド価値はさらに高まった……ジョーダンとはまるで別モノのチームと、ホンダは新たに組むことになる。

 2026年からスタートするアストンマーチン・ホンダ。サーキットでどんな活躍を見せるのか、注目が高まっている。