軍統治下の沖縄の基地でジャズバンドのボーカルとして活躍していた齋藤悌子さん。一時音楽からは離れていましたが、再びジャズを歌い始め、86歳でアルバムデビュー。音楽への情熱を再燃させ、家族や音楽仲間との絆を深めながら、理想を追求し続ける齋藤さんの人生についてお伺いしました。
この記事は月刊誌『毎日が発見』2024年3月号に掲載の情報です。
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初めて歌を聴いた兄が抱きついてきた
――高校卒業後、米軍統治下の沖縄の基地でジャズバンドのボーカルとして歌い始めた齋藤悌子さん。音楽から遠ざかっていた時期もありましたが、80歳を前に再びジャズを歌い始め、2022年、86歳でデビューアルバム『A Life with Jazz』をリリース。2023年には2度の東京公演を成功させました。

去年の2月に初めて東京でコンサートをやらせていただいて、12月は2度目でしたが、あんなに大きなステージで歌うでしょう。
とっても緊張しました。
それに石垣(沖縄県)と比べたら寒くてね。
ちょっとこたえましたね(笑)。
歌い始めた頃はそんな大げさなものではないんですが、高校の音楽の先生が「歌ってみない?」と言ってくださって、学芸会でグノーの『アヴェ・マリア』を人前で初めて歌いました。
卒業後はその先生のすすめもあって、ジャズバンドのオーディションを受けてみたんです。
ジャズはまだ歌えなかったので、そのときも『アヴェ・マリア』を歌って。
鍛えれば見込みがあると思ってくれたのか、合格してバンドの専属歌手として米軍基地で歌うようになったんです。
――そのバンドマスターがのちに伴侶となる齋藤勝さん。予感のようなものは?
まったくありません(笑)。
でも、ジャズのレパートリーを増やすためにレコードを一緒に買いに行ってくれたりと、いろいろ親身になって手助けをしてくれていましたね。
――基地で歌うことへの抵抗はなかったですか?
そういうのは特にありませんでした。
むしろ慰問で来たエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンの歌を生で聴けてラッキーぐらいに思っていました。
基地でお土産をいただくこともあったのですが、兄はあまりいい気持ちではなかったみたいですね。
兄は牧師なんですけど、高等弁務官の就任式で祝福の祈りを捧げたことがあるんです。
そのとき「最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように」と祈って賛否両論が巻き起こったそうです。
――米軍統治下の沖縄で高等弁務官は最高権力者です。
当時私は結婚して夫の故郷の千葉で暮らしていたので、後になって知ったのですが、兄は米軍やアメリカに対して私とは正反対の想いを抱いていたようです。
そういうこともあって兄は私の歌を一度も聴いたことがなかったんです。
ところが22年に沖縄市でライブをしたときに、初めて奥さんと一緒に観に来てくれたんです。
私の歌を聴いて感極まったんですかね、最前列に座っていた兄がいきなり立ち上がって、抱きついてきたんです。
そんなことをするような兄ではないのでびっくりしました。
もうきょうだい5人のうち兄と私しか残っていないので、いまはとても仲良くしています。

P1088117.JPG音楽でも人生でもよきパートナーだった夫の勝さん。「いつもお仏壇に向かって"行ってきます。守ってちょうだい"と手を合わせてから出かけて、帰ってきたら"ありがとうね"と必ず言っているんです」

いつまでも理想を求めて頑張らなくちゃ
――1989年に石垣島に移り住んだんですね。
29歳のときに沖縄から夫の故郷の千葉に移って、しばらく子育てに専念していましたが、お姑さんが「子どもたちは私が見るから歌ったら」と言ってくださって、また夫婦で音楽をやるようになったんです。
夫は、子どもたちに寂しい思いをさせているからと、夏休みのたびに子どもたちを連れて石垣にキャンプに行くようになって、すっかり石垣が好きになってしまったんですね。
それで「老後は石垣で」と夫婦で移り住みました。
幸い先に娘が石垣に移り住んでいて、小さな喫茶店をやっていたので、そこで週末に夫の伴奏で歌わせてもらったりしていました。
ところが移住して数年経った頃、夫が体調を崩して、あっという間に亡くなってしまったんです。
ずっと元気だったんですけど、腰が痛いと言い出して、沖縄本島の病院に行かせたら、翌日先生から「石垣に戻る予定なら、急いでお連れしなさい」と電話がきて。
石垣の病院に入院してからは、早かったですね。
それからというもの何もしたくなくて、音楽を聴くのもつらかった。
10年以上歌うこともできませんでした。
夫がいた頃は一軒家に二人で住んでいたんですけど、一人になったら寂しくて、賑やかな場所のマンションに移り住みました。
それでもずっとふさぎ込んでいたら、ご近所の方がなにかと誘い出してくれたんです。
老人クラブでフラダンスを踊るうちにウクレレもやりたくなって、また音楽に触れるようになったらムラムラムラって音楽への情熱が(笑)。
そしてある日喫茶店でお茶をしていたら、フルバンドの曲が流れてきて、いてもたってもいられなくなっちゃったんです。
週末になるとそこに音楽好きな人がウクレレを持って集まるということで、私も混ぜていただいて、最初はハワイアンを弾いていたんですが、そのうち簡単なジャズのスタンダードの歌をやるようになって。
それを聴いた「すけあくろ」というジャズバーのマスターが、「ライブをしませんか」と声をかけてくださったんです。
――デビューアルバムのレコーディングも「すけあくろ」でされていますね。
娘が「すけあくろ」のマスターと知り合いで、私が長いこと歌っているのに音源が残っていないという話から、アルバムを企画してくれました。
でもレコーディングって大きなスタジオでやるものと思っていたから、「すけあくろ」の地下の小さなライブスペースで録ると聞いても半信半疑でしたね(笑)。
でも素晴らしいミュージシャンが集まってくださって、ほぼ一発録りでしたが、こんなにきれいに録れたんだって自分でも驚くほどの出来になりました。
――毎朝のルーティンがあるそうですね。
早起きして近所の公園で6時半からラジオ体操をしています。
そのあと近くの図書館に向かって、大声でボイストレーニングをやるんです。
その時間ならまだ誰もいませんから、いくらでも大きな声が出せます。
ラジオ体操では面白い出会いもありました。
なぜか体操をしないのに、いつもいらっしゃる方がいて、挨拶をする程度だったのですが、ある日、本の切り抜きをくださった。
そこに「人は歳を重ねただけでは老いません。理想を失ったときに初めて老いが始まる」と書いてあったんです。
この言葉がすごく心に沁(し)みて、公演のたびに必ず言っているんです。
やっぱり、いつまでも理想を求めて頑張らなくちゃね。
若い人と接していろんなことにトライするのもいいと思います。
この間も私の88歳のお祝いをみんなにやってもらったのですが、お礼にかくし芸をしたんです。
みなさん転げるように笑ってくれて、私も元気になりました(笑)。
夢は97歳まで歌い続けることですね。
沖縄では97歳のときに「カジマヤー」という盛大なお祝いをするんです。
派手な着物を着て、たくさんの飾りをつけたオープンカーで町を走る。
それまでは元気で歌っていたいですね。
取材・文/鷲頭紀子 撮影/ Herbie Yamaguchi



ジャズシンガー

齋藤悌子(さいとう・ていこ)さん

沖縄・宮古島出身。高校卒業後、県内の米軍基地で歌い始める。2022年オリジナルアルバム「Teiko Saito meets David Matthews ―A Life with Jazz ―」をリリース。雑誌「ジャズ批評」の「ジャズオーディオ・ディスク大賞2022」 特別賞を受賞するなど話題に。