自動運転の失速

 誰もが疑問なく「自動車」という言葉を使うが、それは「動力が人や馬ではない」という意味だけで、操作は全く手動・足動である。日本だけでも戦後から現在まで65万人の死者と4800万人の負傷者が発生したのはまさにそれが理由である。

 高齢者の運転トラブルなどから自動運転車の普及を期待する声があるが、日常生活に必要な一般道での自動走行ができる見通しは立っていない。自動運転の開発では、完全にドライバー依存の在来車を「レベル0」として、機能が追加されるごとにレベルが上がり、最終的にはどのような状況でも人間が介在せず公道走行する「レベル5」を目指している。

 しかし積極的に自動運転を推進している米国のテスラ社でさえ、市販車ではまだ「レベル2(ドライバー主体でシステムは部分的な制御のみ)」である。そもそも工学的な定義ではレベル2は自動運転に入らないが、テスラ社のオートパイロットという宣伝に惑わされて

「自動運転だと思い込むドライバー」

による重大事故が多発し、米国の自動車史上最多ともされる200万台のリコールが発生している。

ドライバー向け会員制サービス「タイムズクラブ」の会員を対象に実施した「完全自動運転車」に関するアンケート結果。有効回答者数5342人(画像:パーク24)

「AIひき逃げ」にどう対処するか

 自動運転では多くの課題が置き去りのままだ。

 例えば「自動」運転中の事故は誰の責任か。「レベル4」までは、制御システムが対応できない状況になるとドライバーが操作を交代しなければならない。一面では安全対策であるが、現実には何が起きるだろうか。

 自動レベルが上がるほど人工知能(AI)レベルの制御システムが必要になるが、それは同時に

「ドライバーの意識が運転から離れる割合」

が増えることを意味する。2019年3月に、自動運転の普及を想定して閣議決定された道交法の改正案では、未施行ではあるが「レベル3」以上では運転中のスマホ・テレビ等を許容(現在も実態としては行われているが)するという。しかしこれは極めて危険だ。判断や操作がむずかしい局面ほど、人間の介在が突然に求められるからである。

 米国ではかなり冒険的に公道実験を始めていたが、テスラ社の自動運転車が中央分離帯に衝突してドライバー(添乗員)が死亡した事故では、衝突6秒前にシステム側がドライバーに操作を求めるアラームを出したが対応できずそのまま衝突した。

 自動運転車の事故で、ことに第三者を巻き込んだ場合、誰の責任になるのだろうか。ドライバーは当然ながらシステムのせいにして責任を取ろうとしない。誰も責任を取らない

「AIひき逃げ」

が多発するだろう。

路面表示(画像:上岡直見)

人間の認識を代替できるか

 ドライバーがふだん何気なく行っている動作でも、それを機械で代替することは簡単ではない。センサーは進化しているが、センサー自体は

「データを送るだけ」

であって、それが何であるか、どうすべきかの判断はできない。それはAI側の問題になる。

 人間は欠損した情報を無意識のうちに補って全体を判断できるが、上の画像の状況ではどうだろうか。もともとは右方向を示す矢印だが、摩滅していて判読できない。またかガードレールの影が重なってセンターラインにも見える。

 AIが影をセンターラインと認識すれば車がセンターラインに衝突する可能性もある。自動運転の最終ゴールは、どのような状況でも、いつでも完全自動運転が可能となる「レベル5」であるが、この例の幹線道路でさえこの状態では、「レベル5」のあらゆる状況での自動運転のハードルは高い。

ドライバー向け会員制サービス「タイムズクラブ」の会員を対象に実施した「完全自動運転車」に関するアンケート結果。有効回答者数5342人(画像:パーク24)

AIは何を「学習」するか

 人間があらゆるケースを想定して

「こういう場合はこうする」

という解答をあらかじめAIに組み込んでおくのは不可能に近い。このため「深層学習」の技術が提案されている。深層学習とは、人間が解答を用意するのではなく、AIが多数の事例を集積・抽出して「学習」する技術である。

 しかし自動運転のAIは何を学習するだろうか。道路交通法では、横断歩道で「横断しようとする歩行者等があるとき」は車両は一時停止の義務がある。しかし日本では実態として信号のない横断歩道では車が止まらないことが多く、なかには

「クラクションで歩行者を足止めして通過するドライバー」

さえ珍しくない。歩行者が危険を感じて横断をためらうとドライバー側ではますます「横断する意図がない」と判断する。AIが多数の事例を集積してゆくほど、こうした悪慣行を「学習」する可能性がある。

自動運転のイメージ(画像:写真AC)

あなたは自動運転車に乗りたいか

 AIに「疑わしい場合はブレーキ、停止」という原則を組み込めば安全側になるだろうか。しかしそうなったら歩行者・自転車が混在する市街地の一般道ではほとんど動けなくなるだろう。

 ドライバー自身にとっても不快かつ危険が生じる。システムに運転を任せていて、予期しないときに急ブレーキがかかったらどうなるかを想像すればわかる。自動車が自分の予期しない動きをするのはストレスでしかない。

 高レベルの自動運転になるほど、AIつまり他人が運転しているのと同じだ。信号の変わり目での判断の個人差などから、他人の運転に同乗しているといらいらしたり、自分で運転していないと車酔いしやすいなどはしばしば聞くことである。そもそも「自動車」という乗り物は、

「いつでもどこでも自分の意志のままに動ける」

のが魅力であって、それこそが公共交通を駆逐して普及した理由でもある。

自動運転のイメージ(画像:写真AC)

混在期間をどうするのか

 自動運転車の普及に際して、

「在来車との混在期間をどうするか」

の問題も置き去りである。道路上の全車両が自動運転車であれば、相互に連携して最適な制御が行える可能性があるが、自動運転車の導入過程では、いかに普及を奨励するとしても道路上の自動車を一斉に自動運転に置き換えるのは不可能だ。

 専門家でもこの混在期間の問題に触れる論者がほとんどいない。むしろ混在期間ほど複雑な制御が必要になる。AIが相手を認識しているのかどうかを車外に発光ダイオード(LED)で表示すればよいと提案した学者がいる。

 在来車、歩行者、自転車にとっては各自が表示を見て別個に対応を考えるのだろうか。これは笑い話の部類だろう。また道路上の流れのなかで

「一部だけ挙動の違う自動車」

が混在したときの混乱や危険は容易に想像できるだろう。自動運転車が部分的に導入される過渡状態では、渋滞が劇的に増加するというシミュレーションもある。

ドライバー向け会員制サービス「タイムズクラブ」の会員を対象に実施した「完全自動運転車」に関するアンケート結果。有効回答者数5342人(画像:パーク24)

自動運転のリスク

 人間は、自分が原因となるリスクよりも

「他人が原因となるリスク」

を厳しく評価する。日本国内での「人間1億kmの移動あたり死者数」を統計から見ると、鉄道は0.002人(踏切事故や故意の行為を除く)、航空機は0.07人に対して、自動車は

「2.5人」

という桁違いの差がある。鉄道や航空機の事故はメディアで大きく取り上げられるのに、それと桁違いに多くの被害を生じている自動車は社会的に受容されている。鉄道や航空機が他人の運転に依存するのに対して、自動車は自分で運転しているという理由が大きい。

 高レベルの自動運転とは、他人すなわちAIの運転に任せることである。前述のテスラ社の例のように、自動運転に任せていたら中央分離帯に衝突したなどという事故が社会的に容認されるだろうか。鉄道なみとまではいわないまでも、リスクを桁違いに低減する必要がある。

自動車とテクノロジーのイメージ(画像:写真AC)

「クルマ」の概念を捨てられるか

 2024年5月19日に河野デジタル行財政改革担当大臣は、北海道上士幌町で自動運転バスを視察した。同町では自動運転の路線バスの定期運行が始まっており、将来は完全自動運転を目指しているが、現在(2024年5月)は添乗員が同乗している。

「雪を障害物と認識して止まってしまう」

などまだ課題がある。走行速度は時速20kmに抑えられている。

 またヤマト運輸では宅配トラックの自動運転を試行し、それ自体は利用者から好評で成功と評価されている。ただし添乗員が同乗しない無人モードでの走行速度は時速5〜10kmに抑えられている。

 センサーや制御システムがいかに進歩しても、歩行者や自転車と混在する環境ではそれが限度だが、人間が乗車しない物流の末端部分だけならば走行速度は大きな問題ではない。外見は「自動車」だが機能は

「台車」

である。こうしたバスや宅配車の自動運転は可能性が見えつつあるが、人々の日常的な移動に自動運転車を導入するには、いまの「クルマ」の概念を根底から変えざるをえない。しかしそれはおそらく

「不可能」

ではないか。技術の進歩にかかわらず、それこそが自動運転の最大のハードルである。