軍事マニアの現実乖離

 防衛省自衛隊のマニアは多い。民間の立場から軍事分野に趣味的な興味を向ける愛好家である。インターネットの普及により近年ではマニアによる軍事問題の主張も目立つようになっている。

 しかし、専門家はマニアには冷淡である。

・自衛隊の当事者
・関連領域の研究者
・新聞ほかの専門記者

のいずれも

「話は聞くだけ無駄」

と相手にしていない。

 なぜ、専門家は軍事マニアを忌避するのか。

 現実と乖離(かいり)しているからである。公式発表をうのみにし、細部にばかりこだわり、社会的制約を無視した空中楼閣の話しかできないからだ。

自衛隊のイメージ(画像:写真AC)

理由1「公式をうのみにするから」

 第一には、「批判的な読み解きができない」ことである。

 軍事マニアは公式発表を正解と信じてうのみにする。そのため、政府自衛隊の

「誘導のとおり」

に正確に間違える。

 マニアに共通する「公式」権威視の結果だ。

・鉄道趣味
・自動車趣味
・アニメ趣味
・特撮趣味
・アイドル趣味

では公式を正解として扱う価値観がある。例外はプロレスくらいである。

 しかし、公式は正解とは限らない。軍事なら秘密保持のためにうそをつく。軍艦大和の大砲は公式では40cmであった。ジェット機U-2も撃墜までは「気象観測機」であった。またうそではないが本当でもない話もする。酸素魚雷の酸化剤は「第2空気」であり、対空砲弾の近接感知機構は「魔法信管」としていた。

 組織にとって都合が悪い話も隠す。防衛省自衛隊の場合はそれが多い。うそはあまりいわない。本当でない話もそれほどにはしない。ただ、反発や摩擦が予想できる話では緘黙(かんもく)する。軽空母「いずも」の諸寸法は最初からF-35B対応であった。それを海自は決して口にしなかった。

 マニアはそれに正確にだまされる。例えば「いずも」は公式発表を頼みに「空母ではない」と信じ切っていた。なかには比較表を作り「強襲揚陸艦に近い」とも主張していた。ちなみに、そこには速力項目はない。それがあれば30ノットで航行する強襲揚陸艦の不自然に気づくが一歩及ばなかった形だ。

 逆に専門家はそれを見抜くのを仕事にしている。うそやミスガイドのための誘導、カバーストーリーを見つける。さらには、アブセンスという

「本来はそこにあるべきものがない」

といった空隙(くうげき)を発見する商売である。

 だから専門家はマニアを取り合わない。振り付けどおりに踊っていると軽蔑するのである。

自衛隊のイメージ(画像:写真AC)

理由2「模型屋と写真屋だから」

 第二は、「抽象化できない」ことである。

 軍事マニアは細部ばかりにこだわる。捨象の上でマクロの視点からの観察はできない。そのため、細部だけは正確だが

「全体としてとんちんかん」

となる間違いをする。

 その性向は

「ゼロ戦のネジの数にこだわる」

との比喩が示すとおり。これは評論家の牧田寛さんによる秀逸な例えだ。入り口の多くは

・模型趣味
・写真趣味

である。その後も模型や写真と軍事を一体として愛好する。だからカタログスペックのような細部の話から離れられない。

 これも専門家が嫌厭する理由である。問題に合わせた抽象水準の調節はできない。実際にゼロ戦が出てくる話では形式や性能から離れられない。「戦力としてなら21型も52型も同じ」や「本土防空戦なら米戦闘機とも対等である」といった話は理解しない。それこそカタログスペックを持ち出して「不正確であり誤り」といい出す。さらには「『ゼロ戦』ではなく『零戦』」と表記まで文句をつける。

 15年前の戦車導入でもマニアたちはミクロから離れられなかった。専門家による新戦車導入への疑問や戦車戦力見直しを理解できなかった。

「10式戦車も90式戦車も同じ第三世代戦車であり戦力としては同じ」
「海空戦力強化の方針からすれば戦車に投資すべきではない」

といった抽象化した議論を拒絶した。

 できたのはカタログスペックでの有利を持ち出すことだけだ。抽象的な防衛力整備の話に対して判で押したように「新型の10式戦車は在来の90式戦車よりも高性能だから買うべき」との反応を返した。その高性能もさまつ要素の列挙である。

「1割軽い」
「コンピューターが新しい」
「新素材をいっぱい使っている」

であり、なかには「バックで時速70km出せる」もあった。

 しかも、新兵器導入の必要性で高性能を持ち出す誤りでもある。新兵器を購入する理由は「現用兵器よりも高性能だから」ではない。「現用兵器では解決できない問題を解決できるから」である。

 これも専門家が相手にしない理由である。抽象的な話をしているときに「戦車のコンピューターが新しくなる」は的外れでしかない。

自衛隊のイメージ(画像:写真AC)

理由3「お理工さんだから」

 第三は、「社会の仕組みがわかっていない」ことである。

 防衛行政もまた社会的諸条件の制約を受ける。安全保障政策として見ても政治の一要素でしかない。当然ながら社会保障政策や教育政策ほかの行政分野と資源配分で競合する。平時なら予算等で後回しになるのも仕方はない。これは専門家でなくてもそのように考える。

 しかし、軍事マニアにはその観点はない。制約は“推し”である自衛隊を強化する上での障害と見て憎悪する。「新兵器を買うためには、10式戦車1200輌(りょう)を達成するためには、国産の極超音速ミサイルを実現するためには」社会保障への資源配分はしてはならないと考える。

 これは

「科学技術偏愛」

の影響である。マニアはメカミリとしてもくくられるように工学以下に過度な興味を持つ。その反動として

・社会科学
・人文科学

は軽視し蔑視している。だから「防衛費を二倍にすれば、社会保障を半分にすれば、自衛隊は強化できる」と平然と話すのである。

 まずは

「お理工さん」

な主張ばかりとなるのである。これは元3等海佐(中級幹部)の筆者(文谷数重、軍事ライター)が7年前に作った表現である。軍事マニアに加えて宇宙開発マニア、原子力応援団を評する言葉としてそれなりに使われている。いずれも

「技術的に障害がなければ何でもできる」

と考えている。政策採用ではフィジビリティやアクセプタビリティーの問題をともなうこと、そこには社会的諸要素も含まれることを理解していない。

 いまだに国産戦闘機以下の兵器国産化を持ち出すのはそれである。技術的に可能なだけで飛行機や戦車、ミサイルは全て国産化すべきと主張している。国民生活が厳しくなり、こども食堂まで出現した日本にはその余力はない。その兵器国産化で他の防衛支出も圧迫される。自衛隊を弱体化させる筋悪案件ともなる。そこには気が回らない。

 そのため専門家は敬遠する。技術的に可能でも政策として採用可能とは限らない。それを理解しない人では話は通じないからである。

自衛隊のイメージ(画像:写真AC)

商売相手でもない

 なぜ専門家は軍事マニアに冷淡なのか。以上がその理由である。

 付け加えるなら商売相手でもない。軍事や安全保障の専門家は軍事マニアを相手にした仕事ではない。これは交通政策の専門家は

「鉄道マニアを顧客としない」

ことと同じである。

 もともと歓心を買う必要はないのだ。素っ気なく扱うのは当然だし、マニアの振る舞いからすれば没理非漢として扱うのである。