今年3月に「笑点」(日本テレビ系)を卒業した林家木久扇師匠。
 半世紀以上もの間、「黄色の与太郎」としてお茶の間に笑いを提供してきた木久扇師匠が、自らを表すときに使うのが「バカ」という言葉。実際には多才でクレバーな木久扇師匠は、なぜ「バカ」という哲学を貫いてきたのか?

 そして2度のガンを患ったとき、自分のメンタルを守ったのが「バカ」だという、その理由は? 『バカの遺言』より一部抜粋してお届けします。

◆楽天家だから今も元気で過ごせている

 最初にガンの手術をしたのは、2000(平成12)年ですから、もう24年前ですね。胃の3分の2を取りました。

 その前にも40歳になる年に腸閉塞になって、生還率50%と言われた手術を受けてます。喉頭ガンが見つかったのは2014(平成26)年。一時期は声が出なくなって、お医者さんから「いつ出るようになるかわからない」と言われたんですが、おかげさまで今は元気に高座を務めるようになりました。

 命のピンチが何度もあったわけですけど、ぼくは「楽天家だから助かった」と思ってます。バカのゆるさでガンを追っ払ったんです。

◆しぶしぶ内視鏡検査を受けたら…

 最初のガンは、内視鏡検査で見つかりました。おかみさんがぼくの身体を心配して「大学病院に検査に行ってらっしゃい」ってしつこく言うもんだから、しぶしぶ行って受けてみたんです。

 身体の中にカメラが入って、麻酔が効いてちょっと朦朧とした意識の中、モニターにピンク色のドームが映ってるなと思ってたら、先生の動きがパッと止まっちゃった。

「ここんところ白い突起があるんですがね……」

 検査が終わってから「まだ若くてお元気だからガン化が早いと思います。取っちゃったほうがいいでしょう」と、強く勧められました。

 だけど、5月でちょうど催し物が多くて、いちばん忙しいときだったんです。「秋じゃダメですか」って言ったら、先生が「早いほうがいいです」って。

 小さな突起だったんで、たいした手術じゃないだろうと思ってたんですが、開腹手術になって胃の3分の2を切り取られました。「転移のおそれがありますから」ってことらしいです。40日間入院しました。

 地方の仕事は断りましたけど、「笑点」の収録は休みませんでしたね。点滴つないだまま病院から後楽園ホールに行って、大喜利が終わるとまたつないで、看護師さんと病院に帰ってきたんです。

バカの遺言 大喜利で指されてから「あれ、問題なんだっけ?」って忘れるやりとりは、いつもはネタとしてやってるんですけど、あのときは正座してるだけで精いっぱいだったから、本当に忘れていたかもしれない。

 でも、長年やっているから、それなりにちゃんと答えて座布団をもらったりして、テレビを見ている人には「いつもと違うな」ってことは気づかれてなかったんです。

 手術が終わって、先生は「食生活にさえ気を付けていれば、胃はもう大丈夫」って言ってくださいました。ただ、こういう商売なんで、落語会や講演のあとには必ず打ち上げがあるんです。

 催しの担当者が「また来年もやりましょう」と言ってくれたりもする大事な席なので、せっせとお付き合いしてました。

◆14年後に今度は喉頭ガンに

 胃のほうは静かにしててくれていたんですけど、14年後に今度は喉頭ガンになりました。咳がコンコン止まらないから大学病院で検査したら、喉頭ガンのステージ2だったんで。そのうち声が出なくなっちゃった。

 ガンって「こうすれば治る」っていう決まった治療法はないんですよね。放射線がいいのか抗ガン剤がいいのか、通院でいいのか入院するのかしないのか。

 ぼくは噺家ですから、とにかく声を守りたかった。抗ガン剤治療だと髪の毛が抜けるって言うし、そうなるとテレビ映りがよくない。入院もしたくなかったから、通院で放射線治療を受けることにしたんです。

 その治療法が効いてくれるかどうかは、やってみないとわかりませんが、絶対に治る気がしてましたね。

 二度もガンを患って、もっと落ち込んだり先行きが不安になってもよさそうなもんですけど、そうならなかった。ふたつ理由があって、ひとつはバカの天才だからです。

 まだ起きてもいない事件を考えると、頭が疲れちゃう。「不安」を抱えてクヨクヨするのは、頭の無駄遣いです。

 毎日忙しくにぎやかに過ごして、パッと寝て次の日を迎える。それが、ぼくのリズムなんでしょうね。

 もうひとつは、小学校1年生のときに東京大空襲を経験していること。忘れもしない1945(昭和20)年3月10日、3回目の東京大空襲でB29が290機も襲来して、東京の上空から爆弾を落としたんです。ひと晩で十万人の方が亡くなりました。

 そりゃもう、生きた心地がしなかったし、友だちも知り合いもたくさん亡くなってます。

 その頃は毎晩のように空襲警報が鳴って、空をアメリカの爆撃機が飛び回ってた。東京のどこかが燃えていて、夜なのに空が明るかったんですよね。

 空襲のたびに、いっしょに住んでいるおばあちゃんの手を引いて、近くの小学校の防空壕に逃げ込んでいました。

 狭くて真っ暗なところに大勢が肩寄せ合って座って、上のほうで「ゴー」って音を出して飛んでいる爆撃機が行っちゃうのを待つ。今日は頭の上に焼夷弾が落ちてくるかもしれない。

 いつ死んでもおかしくないという恐怖と背中合わせだったし、子ども心に「明日死んじゃうのかな」という虚無感を抱えて生きてました。

◆空襲に比べれば病気なんて怖いうちに入らない

 戦争が終わってからも、引っ越した先で肩身が狭い思いをしたり、父と母が離婚したり、食べるものがなかったりと、いろんな波が押し寄せてきた。

 でも、何が起きても「あの空襲のときに比べたら、こんなのは何でもない」っていう思いがいつもあったんです。大病のときも、そうでした。だから落ち込まずに済んだんです。

 空襲に比べたら、病気なんて怖いうちに入りません。お医者さんがいるし、食べるものだってある。ぼくも早く治ろうとして、来た仕事は全部受けました。

 この日はここに行かなきゃいけないから、それまでに身体を戻そうって気持ちにもなりますしね。

 それと、一生懸命にガンを叱ってたのも、効果があったんじゃないかと思ってます。

 喉頭ガンのときも、起きるとすぐベッドの上で、

「おい! ガンよ、お前は胃に入ってきて、今度はノドかよ。なんで俺の身体に入ってくるんだ。勝手に入ってくるな。俺は家族と弟子を合わせて17人養ってるし、やることがいっぱいある! お前と付き合ってるヒマなんかないんだ! 出てってくれ!」

 そんなふうに、かすれた声で小言を言ってました。ガンも生きてる組織ですから、きっと伝わるはずです。

◆「そういう前向きな患者さんのガンは治るんです」

 病院の先生に「毎朝、ガンを叱ってるんです」って言ったら、「そういう前向きな患者さんのガンは治るんです」っておっしゃってました。

 ガンに小言を言うなんて、普通の人にはバカバカしいようだけど、ガン細胞も小言を聞いているんです。だから身体も治ってくる。

 バカのゆるさがガンを追っ払ったというのは、そういう意味なんです。

文/林家木久扇 構成/日刊SPA!編集部