【ミスターマリーンズ初芝清 笑いと涙の17年】#32

 埼玉・坂戸の中学時代は軟式野球部に入っていた。高校は漠然と東武東上線沿線の強豪・川越商(現・市川越)に進学したいと思っていた。

 家庭の事情で東京・池袋に戻ることになったのが中3の時。この時の担任の教師が二松学舎大付出身だった。私はこの学校を知らなかったが、「練習会(セレクション)があるから行ってみるか?」と勧められ、行ってみたら合格。秋の東京大会準優勝で翌春センバツ出場を確実にしていたこともあり、入学してもいいかなと思った。

 入学前、甲子園に行って全試合を観戦。決勝でPL学園に敗れたが、準優勝したのを見届けて入部した。

 千葉・柏にある寮に入れるのは10人と決まっていた。朝、東京・九段下の学校に通うため、寮から柏駅までの送迎ワゴン車の定員が10人だったからだ。 

 私は入学早々、入寮を許可された。内訳は1年生2人、2年生2人、3年生6人。当時は50畳の大部屋に10人で雑魚寝。人数が少ないため、1年生の仕事は特になく、食器洗いもジャンケンで決めるようなアットホームな雰囲気だった。3年生には現監督の市原勝人さんがいて、練習試合の1試合目は市原さん、2試合目は1年生の私が投げていた。投手同士、面倒を見てもらったが、私が発した言葉は「はい」「いいえ」「存じません」の3つだけ。そんな時代だった。

 2年時からエース。最後の3年夏の東東京大会は、4回戦でその年の春のセンバツで全国制覇した岩倉に9-7で勝利。準決勝で強豪・帝京にコールド勝ちしたことで「甲子園へ行ける」という油断が生まれた。決勝の相手、日大一には前年の秋、都大会準々決勝で敗れていたのに「今のオレたちなら勝てる」という慢心があった。結局、1-3で敗れたのは苦い思い出である。高校通算30本塁打だった。

 進路はプロ一本。スカウトも挨拶に来ていたから淡い期待はあった。そんな中、高校の監督に「立教大学の練習会に行ってくれ」と言われたので参加すると、立大の関係者に「野球は申し分ない。ただ、うちは野球だけで入れないから勉強も頑張ってくれ」と言われた。うちは母子家庭だったため、学費が発生する大学へ進学するつもりはなかった。「風呂でサッパリしてから帰ってくれ」と言われ、浴室に行くと、なんと打撃投手を務めてくれた立大の1年・長嶋一茂さんが、4年生を差し置いて一番風呂に入っていた。「よお、お疲れさん」とまるで上級生のような風格で度肝を抜かれた。

 結局、ドラフトでプロからの指名はなかった。就職も進学も決めていなかったため、途方に暮れていると、社会人の東芝府中が1枠を増やして拾ってくれた。高校時代はエースだったが、投手の走りまくる練習が嫌いだったので打者を選択。高卒1年目の夏から4番を任された。(つづく=最終回)

(初芝清/オールフロンティア監督・野球解説者)

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