【注目の人 直撃インタビュー】

 柳谷登志雄
 (順天堂大スポーツ健康科学研究科教授)

 国内の陸上競技は2023年度のロードシーズンが3月で終了した。マラソンや箱根大学駅伝などに出場した多くの選手が「厚底シューズ」(厚底)で自己記録を伸ばし、女子マラソンでは前田穂南(天満屋)が大阪国際で2時間18分59秒をマーク。19年ぶりに野口みずきの日本記録(2時間19分12秒)を更新した。17年にナイキの初代厚底が登場。その後、ライバルメーカーも次々に厚底を発売し、今も世界で「旋風」が吹き荒れている。スポーツバイオメカニクスが専門でシューズの機能に詳しいこの人に厚底のメリットや弊害、疑問などについて聞いた。

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 ──柳谷先生は箱根駅伝に出場した順大陸上部員の協力のもと、ナイキのヴェイパーフライ(VF)4%の次のモデル「VFネクスト%」である実験をしたそうですね。

 約10人が大学のトラックで5000メートルのタイムトライアルを午前と午後に1本ずつ行い、私たちが数カ所でビデオを撮って、動作解析もしました。研究論文を投稿中のため詳しくお話しすることはできませんが、ほぼ全員が従来のシューズ(薄底)よりタイムがよくなり、歩幅も伸びた。これは効果があると思いましたね。また、従来の薄底より、筋肉の働きが5%ほど抑えられていた。5000メートル走なら15〜30秒もタイムが伸びるという見方もありますし、実際にそれに相当するタイムが伸びてました。

 ──5000メートルで30秒ですか? マラソン(約42キロ)なら4分20秒以上。それが靴の中にあるカーボンプレート(CP)の力ですか。

 CP効果を勘違いしている人が多いようです。踏み込んでCPが折れ曲がり、戻るときに跳ねるといわれています。CPが戻る力はゼロではありませんが、VFはミッドソールが厚く、硬いので踏み込むとかかとがあがる、いわゆるシーソー効果が発生します。これによりストライドが伸びる。エビデンスは得られていませんが、CPの最大のメリットは、靴の形と前傾姿勢をキープすることによるシーソー効果ではないかといわれています。

 ──厚底に向くのはつま先から着地するフォアフット走法といわれ、市民ランナーはかかと寄りで着地するリアフット走法が多い。効果はありませんか。

 そんなことはないです。かかとが高いので衝撃を吸収してくれますし、かかとから地面についても前傾になりやすい構造になっています。もともと日本人に多いリアフットだと、かかとをついたときの衝撃が大きく毛細血管が破壊されて酸素供給が悪くなる。レース後半に酸素供給が低下してバテてしまう。マラソンはよく「魔の30キロ」とか「35キロからがきつい」と言われているのはこれで説明がつく。厚底だとかかとの衝撃を吸収するので毛細血管の破壊が抑えられ、レース後半でも疲労が軽減されます。時速14キロ、16キロ、18キロで走ったときの酸素摂取量を計測した海外論文があります。スピードを上げれば、当然酸素摂取量は増えます。VFを含む3種類の靴を比較すると、いずれもVFは他の靴よりも酸素摂取量が最も少ない。どれくらい少ないかといえば4%。ヴェイパーフライ4%の名称通りです。

疲労骨折の箇所が脛骨から大腿骨へ

 ──ナイキのVF4%はかかとも厚いがすごく軽い。確か170グラム前後。

 かつてトップアスリートのシューズは、薄底かつ軽量が常識でした。100グラム軽くすると、酸素摂取量が1%軽減され、タイムも同じくらい速くなるといわれました。でも、レース後半に脚が痛くなることが多々あった。VF4%は軽い上にミッドソールが40ミリもあるのでそれを回避できます。私がこのシューズに着目したときは、すでにたくさんの記録が出ていたときです。高速水着の「レーザー・レーサー」(LR)と同じ印象を受けました。

 ──LRは縫い目がなく、水の抵抗が軽減された競泳水着です。08年の北京五輪で23個もの世界記録が生まれた。その後使用禁止になりましたね。厚底も使用禁止になるとの話がありましたが、世界陸連は20年にミッドソールの厚さなどに規制(ロード競技はソールの厚さ40ミリ以下、内蔵プレートは1枚など)をかけただけでした。

 20年のルールはナイキの厚底に合わせたものでしょう。一度規制しているので、今後も使用禁止になることはないと思います。ただし、非常に反発力が高いプレートの新素材などが出てくれば議論になるでしょう。

 ──LRのときもそのような話が出ていましたが、マラソンは厚底の登場前と後の記録を同一視するべきではないという声があります。

 LRで生まれた世界記録は当分破られないだろうといわれていましたが、今は過去のものです。それはトレーニング環境や技術研究の進歩などによるものでしょう。厚底が使用禁止になっても同じではないでしょうか。

 ──水泳やマラソンは最も用具と無縁の競技です。マラソンでローマ、東京と五輪を連覇したアベベ(ビキラ=エチオピア)のように裸足で走れとは言いませんが、今は厚底のメリットが大き過ぎると思いませんか。

 私もそう感じています。しかも厚底は2万円後半から3万円台後半と高価です。今年の箱根駅伝の選手に人気のあったVFネクスト%はもう製造していないため、ネットで探すと7万円もしたそうです。高価でも使用できる期間が短い。従来の薄底は1000キロ履いたらクッションが利かなくなるといわれていましたが、VFの効果は300キロまでとか、460キロで反発性能がなくなるという論文も出ています。

 ──昨年12月、プーマがつま先からCPが露出したシューズを出しました。メーカーの開発力に規制が追いついていないということはないですか。

 CPを2枚にしたり、長くしたから効果が上がるというエビデンスは今のところありません。ただし、VFを履くと圧力中心が1センチ前にいくといわれている。指の関節から圧力中心までの距離が1センチ延びるので、テコの原理でテコが大きくなると同じ力で蹴ったときにトルクが大きくなり推進力が増す可能性が高い。これもエビデンスがないのは、靴の中のことなので正確に捉えることが難しいのです。

 ──厚底による故障リスクはどうですか。ケガが増えたという声も聞きます。

 これは私たちが海外の雑誌に発表したのですが、VFを履くと筋活動が3〜5%軽減される。それだけ筋肉がエネルギーを使わなくなる。どこの筋活動が減るかといえばふくらはぎです。しかし、箱根駅伝を見ていると、厚底を履いて走り終えた選手たちの多くはハムストリング(太もも裏)をマッサージしている。スポーツ医学の先生によれば、以前は疲労骨折の箇所は脛骨だったが、厚底になってからは大腿骨の骨折が多くなったそうです。VFを履くことで負担のかかる部位がふくらはぎから、体の中心部に移ったと聞きました。走り方を含めて、厚底には合う、合わないがあります。必ずしも誰もがメリットを享受できるとは限らないということは理解した方がいいと思います。

(聞き手=塙雄一/日刊ゲンダイ)

▽柳谷登志雄(やなぎや・としお)1972年、東京都生まれ。埼玉大学教育学部卒業、東京大学大学院修了。順天堂大学大学院スポーツ健康科学研究科教授。スポーツバイオメカニクス、運動生理学、特にランニングの科学に詳しい。2004年から20年まで日本陸連科学委員。