1998年オフ、野村克也が暗黒期の阪神タイガースにやってきた。名将の就任に、ファンは大きな期待を寄せた。しかし、まさかの3年連続最下位で辞任。その原因は何だったのか。試合前後のミーティングで毎日、野村監督と濃密な時間を過ごしていた三宅博・元チーフスコアラー(82歳)がNumber Webの取材に応じた。(全4回の2回目/#1、#3、#4へ)※敬称略。名前や肩書きなどは当時。年俸は推定 

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「星野(仙一)で2003年に優勝したけど、野村さんが間違いなく下地を作ったと思うよ。ただ、当時は選手と上手くいってなかったな。ボヤキが阪神には合わなかった」

雑談が“告発”に…大豊泰昭の舌禍騒動

 野村監督の就任早々、大豊泰昭の舌禍騒動が起こった。ナゴヤ球場時代の1994年に38本塁打、107打点で二冠王に輝いた中日の主砲は、広くなったナゴヤドームで調子を崩し、98年に阪神に移籍。チーム最多の21本塁打を放つも、打率.231と安定感に欠けた。オフには年俸が1億8000万円から1億2600万円にダウン。大幅な減額に対し、週刊誌にこんな言葉が掲載された。

〈交渉の後の記者会見で、『僕らが減らされた金額分はサッチーがもらうのか』と、怒りにまかせて野村監督夫人を批判してしまった〉(※1)

 記事自体は小さかったが、在阪スポーツ紙が取り上げ、瞬く間に広がった。大豊はのちに述懐している。

〈この話はたしかに私の口から出たものだった。だが、それはあくまでも冗談。告発などというものではない。しかも普段顔を合わせている担当記者との雑談の中でしゃべったものだった〉(※2)

過熱するタイガース人気の“怖さ”

 大豊から謝罪を受けた沙知代夫人は「大事な時に何を気にしているのよ。そんなことより豪快なホームランを打って野村克也を助けてあげて」(※3)と温和に対応した。大豊はこの一件で、野村就任で過熱するタイガース人気への危惧を抱いた。

〈中日時代には、こんなことはなかった。野村さんが監督になることで、だれもが商売になる言葉を狙っている。みんな疑心暗鬼になり、チームの和が乱れてしまう危うさがあった〉(※4)

 野村就任以来、阪神を取り上げる媒体が激増した。春季キャンプの初日には前年の倍以上の260人もの報道陣が集まった。長嶋茂雄監督の巨人や黄金ルーキー松坂大輔の西武よりも多く、12球団で1位だった。

野村監督1年目「序盤の快進撃」

 野村はヤクルト時代と同じように、夜のミーティングで「人間とは」というテーマから話し始めた。シーズンに入っても、野村の講義は毎日続いた。試合前の打者ミーティングでは狙い球の絞り方、バッテリーミーティングでは初球の入り方などを徹底的に指南した。三宅が振り返る。

「それまで阪神のミーティングはワシ任せだった。コーチもあまり話さなかったし、監督は出てこない。でも、野村さんは必ず参加していた。まずスコアラーの話を聞いて、そのあと自分が感じたことを話していた」

 効果はすぐに出た。99年、開幕カードの巨人に勝ち越し、4月7日の広島戦では星野修が2ランスクイズを決めた。野村が「チームプレーの意識が一番出やすい」という走塁に改善が見られた。6月9日には吉田豊彦、福原忍、リベラのリレーで広島を破って6年ぶりの首位に立つ。12日には新庄剛志が巨人・槙原寛己の敬遠球をサヨナラ打。100万円の『純金製ノムさん像』が売り切れるなど大フィーバーが巻き起こっていた。

「野村監督になってから、スコアラーは見逃しでも“違うボールに山を張っていた”“前の打席で打ち取られたから手を出さなかった”などの分析を加えた。一度、『巨人打線はヤクルトにこの攻め方で打ち取られました』と報告したら、『ヤクルトと阪神の投手のスピードやコントロールの違いも考えた上で対策を立てなあかん』と言われた。常に“活きるデータ”を求められた」

大豊を名指しで批判→ボイコット事件

 快進撃の裏で火種も燻り始めていた。野村のコメントは毎日、大々的に報道されていた。特に、大振りの目立つ大豊には厳しかった。春季キャンプでは「あいつのストライクゾーンは2階から地下3階まである。四球嫌いが一番の原因や」と諭し、オープン戦では「チーム優先主義を口すっぱく言っているのにわからんのかな」と辛辣に当たった。4月21日の横浜戦前のミーティングでは「10年前と変わっていない。ボールを振るのはチームに迷惑だ」と名指しで批判した。

「三流は無視、二流は称賛、一流は非難」という野村の哲学に従えば、大豊を一流と認めている証だった。しかし、7月1日の試合前に事件が起こる。突如として、大豊が甲子園球場を後にした。この日の在阪スポーツ紙に掲載された〈大豊も問題意識を高めないと、終わっちゃうよ。各球団に攻め方も固定されてるし、もう契約してくれなくなるよ〉(※5)というコメントを読み、鬱憤が爆発した。まだ造反は公になっていなかったが、試合後の野村は嘆いていた。

〈監督は人使いが1番難しいわ。名監督の条件の1つじゃないの。適材適所。相手、アウトカウント、状況、もう1つは気分よくやらせることや。これが難しい。オレ、下手だから。情けが人に通じない〉(※6)

 阪神のお家騒動を解決したのは、中日の星野仙一監督だった。“日本の父”と慕う大豊が電話で相談すると、〈泣き言を言うな。おまえが悪い、間違ってる。ノムさんのところに行って謝ってこい!〉(※7)と檄を飛ばした。大豊は恩師の助言に素直に従い、野村監督に謝罪。球団は罰金200万円を科した。

チームの不協和音…野村監督初の最下位に

 大豊に限らず、毎日繰り返される“非難”を読んだ選手の心は指揮官から離れて行った。阪神はオールスターを挟んで9連敗。口は災いの元と感じた野村は8月6日以降、コメントをあまり発さなくなった。それでも選手の士気は上がらず、9月には12連敗を喫し、野村は監督生活で初めて最下位に沈んだ。

「ミーティング中の雰囲気も良くなかった。選手はただジーッとしとるだけや。そりゃあ何人かは聞いとったでしょうけど、ほとんどは耳に入ってこなかったんじゃないかな。野村さんはいいことをたくさん言うてくれとったけどね」

 ミレニアムの2000年を迎えても、状況は好転しない。藪恵壹が延長10回を完封した4月27日に首位に立つも、翌日から6連敗。5月16日には定位置の最下位に戻った。それでも試合が終わると、野村はコーチ陣とチーフスコアラーの三宅を集め、必ずミーティングで打開策を練った。

「ものすごく勉強になった。ただ、静かなまま時間だけが過ぎるような日もあった。それが毎日続くと、コーチ陣も疲労が溜まってくる。伊原(春樹)がストッキングを脱ぎ出して、『野村さん、もう材料ないですよね。終わりましょう』と言って、お開きになる日もあったな。ワシもミーティングの後にデータ分析の仕事が残っとるから、隣に座るマネージャーを足で突いて『もう1時間経ちました』と急かす時もあった。サッチーが待ってる時だけは早かったけどな(笑)」

3年連続で最下位…野村の苦闘

 2年目も最下位。3年目も浮上の気配が見えない。オールスター休みの7月、野村は久万俊二郎オーナーと会談し、「オーナーが考え方を変えないと阪神は変わりません。優勝するためにはお金がいるんです」と直言した。

「野村さんは阪神に来た時から『金はそこそこ使ってるけど、使い方が下手なんや。編成を変えないとダメや』と言うてた。たしかに、ディアー(94年)やグリーンウェル(97年)に大枚を叩いとったけど、全然活躍できなかった。一部のフロントはオーナーに『今年は優勝できる戦力です。この投手が何勝して、この打者が何本打ちます』と報告書を渡していた。夢みたいな数字を書いとったらしい。野村さんは『どうやったら、こんな計算ができるんや。しかも、オーナーが信じるんやで』と嘆いていたわ」

 2001年、野村は就任時には予想できなかった3年連続最下位に沈む。続投が決まっていたが、沙知代夫人が脱税容疑で逮捕された12月5日の深夜、野村は辞任を表明した。

野村「星野がいいと思います」

「野村さんは阪神に欠けていた相手の隙を突く走塁の姿勢、進塁打や四球を奪う献身性などチームプレーの必要性を3年間説き続けていた。選手もワシも準備の大切さ、野球の奥深さを教えてもらった」

 野村は球団に次期監督を相談されると、「星野がいいと思います。阪神には怖い男が必要です」と進言。中日の監督を退任したばかりの闘将・星野仙一は、キャンプ初日の早朝から野村と真逆の行動に出た――。〈つづく〉

※1 1999年1月14日号/週刊文春
※2、4 2004年11月発行/大豊泰昭『大豊』(ソフトバンク パブリッシング)
※3 1999年1月30日付/スポーツニッポン
※5 1999年7月1日付/サンケイスポーツ大阪版
※6 1999年7月2日付/スポーツニッポン
※7 1999年7月3日付/スポーツニッポン

文=岡野誠

photograph by JIJI PRESS