来春のセンバツ出場権がかかった秋大会が終わり、全国の強豪校の勢力図が少しずつ見えてきた高校野球界。そんな中、かつて名門校を率いた2人の名伯楽が、新天地で新たな活躍を見せている。これまでの経験はもちろんのこと、令和の新時代に求められる指導への変化も含め、名将たちの“第二幕”を追った。(前後編の前編/後編<元横浜高・平田監督編>を読む)

 9回表、2死・二塁の場面で、創志学園(岡山)の6番・杉山大宙が思い切り振り抜いた打球が左方向へ転がった。広陵(広島)の三塁手・酒井綾希人が軽快な動きで捕球し、一塁へ送球して3アウト。この瞬間、広陵の3年連続の優勝が決まった。

 2−1。秋季中国大会の決勝は1点を争う接戦となり、広陵に軍配が上がった。

「うーん、力……力がなかったなと。点差以上にね、大きな差を感じた一戦でした」

 インタビュールームとして設けられた球場内の一室に、創志学園・門馬敬治監督の重たくも歯切れのいい声が響き渡る。接戦の末、敗れた悔しさと虚しさが混じった低いトーンが、指揮官の感情そのものを表していた。

 0−0で迎えた4回表に創志学園が3番・豊島虎児の中前適時打で先制したが、5回に2死から1番の濱本遥大の右中間を破る適時三塁打で同点となった。8回には広陵が1死一、三塁のチャンスを作り、代打・澤田哉斗の高いバウンドのショートへの内野ゴロで三塁走者が生還し、これが決勝点となった。

「バッティングとか技術的なことよりも、濱本君に打たれた同点の場面。タイムを取ってね、インコースを突こうと言った中で、あの1球が甘く入ったんですよ。ランナーが二塁だったので、逆に何とかショートに(打たせた)というのも影響したのかなと。経験なのか、実績なのか、色んな差があるなと試合を終わって感じているところです」

春夏4度甲子園制覇の「超名門」から新天地へ

 唸るように門馬監督は同点打の場面を振り返り、嘆いた。22年8月からチームを率いて、この秋から2年目に突入した新天地での監督生活。

 99年に29歳で監督に就任した東海大相模では、春夏計4度、チームを全国制覇に導いた。その門馬監督が同校を退任するという報道が広まったのは春のセンバツを制して約4カ月後の21年7月。高校野球界に衝撃が走った。

 最後の采配となった21年夏は部内に新型コロナウイルス感染者が続出したことで、神奈川大会の準々決勝を前に辞退。5回戦の藤嶺藤沢戦が最後の采配となり、9月30日付けで東海大相模高を退職した。

「僕が目標としているのは渡辺(元智・前横浜高)監督と西谷(浩一・大阪桐蔭高監督)。向こうにはそんなことは思われていなくても、自分からすれば目指すべき目標であって、追いかけたい人物なんです。両名がされているのが春夏連覇。センバツを制して、そこにチャレンジできたのがあの年(21年)だったんです。

 毎年、夏の大会前の最後に大阪桐蔭と練習試合をしているんですけれど、何年も練習試合をやってきて、あの年は初めて2連勝できたんですよ。今までにない思いも持って、最後の夏の大会に臨んだんですけれどね。

 あの年の3年生は、入学をしてから一度も県大会で負けていなかったんです。最後の1敗は負けずに終わってしまって……。試合では負けていないけれど、コロナに負けた、というかね。残念という言葉では表せない無念さがありました」

「体調不良」という理由で一旦表舞台を降りた格好となったが、これだけの実績がある門馬氏を高校野球界が放っておくわけがない。多くの強豪校から指導者としてのオファーが届く中、「熱意を感じた」という創志学園の創立者でもある大橋博理事長(現・総長)の誘いに心を打たれ、創志学園に赴任することになった。

神奈川から「縁もゆかりもなかった」岡山へ

 家族を残し、単身で「全く降り立ったこともなかった」という岡山へ。岡山市内から車で約30分の赤磐市にあるグラウンドで選手たちと対面した。だが、いきなり直接指導には当たらず、外から練習を見学させてもらったという。

「ブルペンでも、後ろからジーッと見ていました。選手からしたら、どう思われているんだろうってなりますよね。色んな感情を抱くのは当然のこと。それでも、気づいたことをボソッと言っていました。でも、3日間だけの約束が、1時間くらいで“ごめん”って謝って自分の思いを選手らに話してしまいました」

 門馬監督には、あるポリシーがあった。

 それは、飾らずに、ありのままの言葉で全てを伝えることだ。ノックひとつでも選手たちと真正面から向き合い、何かを感じてもらいたい。自分の本気を、練習を積み重ねながら伝えられれば――。状況に応じて褒める、指摘することはあっても、余計なことは一切口にしなかった。

 監督になって1年を迎える直前の今年の6月。門馬監督は当時のチームを「教えようとしていることが1割も浸透していない」と明かすと、こう続けた。

「24時間のうち野球をやっている時間は短いでしょう。あとは食事をとっている、学校に行っているとか。これを食べたら練習でのエネルギーになるとか、この数字を覚えたら野球とこう関係するとか、本来は全部、野球に繋げられるはずなのに、その回路がプツプツ切れているんですよ。

 試合でも打たれたことは特に言わないけれど、何を考えて投げたのか。一生懸命に投げちゃったのか。必ずそこにヒントがあるんです。強打者だとボールから入るとか、長打にならない高さから入るとか、そういう意識をしないと。技術がなくても意識があれば抑えられることもあるんです」

 今年の春から夏にかけては、岡山を飛び出し中国・四国や近畿圏の強豪と練習試合を数多く組んだ。「甲子園を知る、しのぎを削っている熱い監督さんのいる学校と試合をしたい」と、週末になるとバスで西へ東へ、南へ向かった。

 3月に完敗し、もう一度勝負したいと4カ月の間に2度、履正社には練習試合を申し込んだ。6月にはセンバツ準優勝の報徳学園のグラウンドに出向き、1試合目で6−6と引き分けたが、試合後の門馬監督の表情は険しかった。

「(選手には)引き分けたから弱くないとか勘違いしてもらいたくないんですよ。ノック、シート打撃は必死にやるけれど、試合になるとどこかが抜けているんです。徹底することの徹底ができていなくて」

「未来は分からないけれど、今を頑張れば成果は出る」

 目指す頂がずっと先にあるからこそ、求めるものは高くなる。

「将来、未来を考えてやれって言っても、今を頑張らない子が多い。未来はどうなるのか分からないけれど、今を頑張れば成果が少しずつ出る。まずは今、頑張ろうよって。やるのは今しかない。だから一日一生なんです」

 練習でのそのひと時、1分1秒を無駄にすることが成長の妨げになると、指揮官は必死に伝えてきた。

 中国大会の決勝で感じた広陵との差をこれから埋めていかなくてはいけない。地元の記者からセンバツに向けてどういった目標設定をしていくのかと問われると、即座にこう返した。

「目標設定するよりも今日をどう過ごすか。今日の悔しい思いをどうぶつけていくか。どう過ごせるかによって明日が決まっていくんじゃないかなと。この秋は守備面で崩れなかったことは成長だったと思うけれど、全てを兼ね備えていくチームが勝てる。たとえ兼ね備えてなくても、何かをこじ開けられる本当の強さをこれから身につけていきたいですね」

 昨秋の中国大会は準々決勝で光に5−6と1点差で破れた。昨年に続く1点差の屈辱は門馬監督の心に深く刻み込まれた。だから、今年もやるしかない。

「今日(帰ったら)練習しますよ。悔しいうちに練習しないと。人間、忘れるから。忘れる前にね。この球場で悔しい思いをした。あと1点が、あと1球が、あのプレーがっていうのを思いながらね。打てなかったこと、抑えられなかったことを思いながら練習しないと。今感じたことを今動かなさいと繋がっていかないんじゃないかと思って。途切れさせちゃいけないと。今日が重要なターニングポイントになると思います。僕がよくここまで来られたね、と感じてしまったら成長はできないですから」

 自戒も込めたそのコメントには一層力がこもっていた。と、思ったら、門馬監督は表情を崩してこうも漏らした。

「西谷の言葉を借りると“勝って反省したかった”よね。やっぱり負けてしまうとね、後ろ向きになる。前向きにいきたい。その方が色んな言葉が生きるんですよ」

「基準を上げることを止めてしまうと成長しない」

 6月の時点では“1割も浸透していなかった”教えは、今はどれくらいまで浸透したのかを尋ねると、門馬監督は苦笑いを浮かべてこう明かした。

「今も全然だよ。何割良くなったかと聞かれても、何割って定めたくないんだよね。常に毎日基準を上げようってやっているから。毎日のことを考えるとまだまだだね。基準を上げることを僕が止めてしまうと成長しないので、その先を目指せるように。そうしてあげることが彼らの成長に繋がるからね」。

 10月の半ば、中国大会直前に実は大阪桐蔭と練習試合をする予定だった。だが、大阪大会の日程が雨天延期になった関係で試合は中止になったという。

「やっぱり大阪桐蔭と試合をしたいじゃない。強いチームがどう強いかを見ないと。美味しいものって実際に食べないと美味しいって分からないでしょ。それと一緒だよ」

 新生・創志学園。秋の中国大会の頂点には立てなかったが、成長の最中にある。

 タテジマからアイボリーのユニホームに替わっても、門馬監督の勝負への執念はむしろ熱を増す一方だ。

<「元横浜校・平田監督編」に続く>

文=沢井史

photograph by Fumi Sawai