サッカー日本代表が初のW杯出場を懸けて戦い、すんでのところで夢への切符を逃した「ドーハの悲劇」から30年ーーその中心にいたのは背番号10のラモス瑠偉だった。ときに監督との衝突も辞さず、誰よりも日の丸を背負うことへのプライドを滾らせた男が、30年の歳月を経て日本代表への熱き想いを明かした。<NumberWebインタビュー全2回の前編/後編へ>

 ラモス瑠偉は怒っていた。

 1992年3月、サッカー日本代表史において初めてのプロ契約外国人監督となる、オランダ人のハンス・オフトが就任。スモールフィールド、トライアングル、アイコンタクトを掲げて最初の浜名湖合宿ではプレー中に止めては細かく指導するスタイルの新監督とはハッキリ言ってソリが合わなかった。

「あの人は指笛を使うから、イライラして“あんたの犬じゃないないんだぞ”って周りにも聞こえるような声で言ってやったんだ。オフトが通訳を呼んで“瑠偉は何と言ったんだ”と聞いていたね。今の時代なら私はもうそこで外されていたよ」

 代表は1人や2人のものじゃない――。オフトが放ったその言葉は、ほかならぬラモスに向けられていた。いつだって“噛みつく”準備はできていた。

 Jリーグ開幕前年とはいえ、日本代表がアジアで勝てないとあってはサッカー熱が高まっていくにも限界があった。その殻を破るべく、元オランダユース代表コーチでJSLのヤマハ発動機、マツダで指導実績を持つオフトに白羽の矢が立ったわけだが、そもそもこの人事に不満があった。

 あのときも怒っていた。

 1977年に来日して読売クラブを強豪に引き上げた彼は外国人枠を空ける目的もあって1989年に帰化し、日本代表監督を務める横山謙三から打診を受け33歳にして1990年の北京アジア大会で代表デビューを果たした。準々決勝でイラン代表に敗れたものの、ラモスの目にはまずもって代表チームが臨む姿勢とは思えなかった。

 感情を抑えるだけで精いっぱいだったという。

「あれじゃ遠足と同じよ。試合が目の前にあるのに、緩い雰囲気のまま。この人たち、日本代表の誇りないの?と思った。カズ(三浦知良)も私も何もできなくて、哲ちゃん(柱谷哲二)も違うと感じていたんじゃないかな。日本に戻って空港に着いたときに横山監督に代表、辞めますと伝えた。そうしたら、分かった。お前と話をしたい、と。何日か後に連絡があって協会に行って、感じたことをありのままにしゃべった。そうしたら横山さんが、これから代表は変わるから来い、と言ってくれてね。本当に変わったよ」

「森保にボールを要求しても…」

 雰囲気がガラリと変わっていくなかでラモスは攻撃において裁量を与えられ、1991年6月のキリンカップではタイ代表、のちにヴェルディ川崎でチームメイトになるビスマルクのヴァスコ・ダ・ガマ、ゲーリー・リネカーのいるトッテナムに対して3連勝を飾って優勝を遂げる。“支持率”が低調だった横山ジャパンの風向きが変わるかと思われた。しかし翌月の日韓定期戦に敗れたことで一気にトーンダウン。結局は監督交代を余儀なくされ、オフトに至る経緯があった。

「横山さんから自由を与えられたし、その責任を感じていた。生意気を言わせてもらったら、私の力を出し切ることができたら日本は強くなると思っていたよ。だって読売クラブでもそうしてきて、実際にそうなっていったから」

 横山体制での可能性を感じていただけに、スムーズに気持ちを移行できないでいた。ラモスを頼った前任者とは真逆のアプローチでやってくるのだから、反発の火もなおさら強くなる。サイドばかりを意識させる戦術も、気に食わなかった。

「読売クラブは中にいる私を経由して攻撃していくのに、オフトの場合は真ん中よりサイド。私が真ん中で受けられるのに、ここでボールを持ったらチャンスだし、その絵が描けているのにわざわざ1回開かせる。(中盤の)底にいる森保(一)にボールを要求してもオフトの指示どおりに外、外。私、使われないから“こんなんじゃつまんないよ”って練習中に大声で言ったね」

「あなたがいなくなったら勝つのは難しくなる」

 不満を強めるベテランと、眉をひそめる指揮官。衝突必至の2人の距離を縮めるきっかけとなったのが8月のダイナスティカップ前に行なったオランダ合宿だった。キャプテンに任命された柱谷がオフトと選手の間に入って、戦術、規律を含めて調整役になっていた。

「哲ちゃんに、言われたよ。ラモスさん、あなたがいなくなったら代表チームが勝つのは難しくなる。まずはオフトの言っているとおりにやってみようじゃないか、と。私も考えたよ。じゃあ哲ちゃんの言うとおりにしてみようかと思った」

 あくまで渋々の了承である。そんな折、オフトと直に話す機会があった。カプチーノを飲んでいたときに監督のほうからやって来たのだ。言いたいことは山ほどある。咄嗟に出たのが、オランダの地でアマ代表やクラブチームとばかり試合をやらされることだった。

「私たちにも日本代表としてプライドがある。もっとA代表同士で試合がやりたいと言ったら、あの人賢いなって思ったね。相手が代表なら(日本は格下だから)手加減する。でもクラブチームなら、ナショナルチームを食ってやろうってしっかり戦ってくれる。私は戦える、たくましいチームになってほしいからこうやっているんだ、とね」

 戦うチームにしていく。そこに対して異論はまったくない。オフトは真剣にチームのことを考えているのだと思えた。反発の一端が雪解けしただけであって、噛みつきそびれたくらいの感覚しか当時はなかった。

オフトから「瑠偉はやれそうか?」

 オフトに信頼を寄せる決め手になったのが、東アジアチャンピオンを決める北京でのダイナスティカップである。2年前は最下位だった大会。日本はグループリーグで韓国代表に引き分けながらも中国代表、北朝鮮代表に2連勝して、韓国との決勝戦に進んだ。

 天候はピッチがぐちゃぐちゃになるほどの雷雨。左足を痛めていたラモスはベンチスタートとなった。

「あのなかで(先発から)出ていたら(左足は)壊れていたかもしれない。ピッチの状態はかなり悪いし、そのなかで韓国代表の選手たちはガンガン来ていたから。でも勝たなきゃいけないという強い気持ちはオフトが植えつけていたと思う」

 ハーフタイムにオフトは、ラモスが信頼を置く武井経憲ドクターに尋ねたという。

「瑠偉はやれそうか?」

 その言葉に対して武井はこう返したそうだ。ラモスとオフトの微妙な距離感を物語るエピソードでもある。

「監督、あなたが直接聞けばいいじゃないですか」

 オフトがラモスに目を向けて、武井に尋ねた言葉を反復した。

「行けます!」

 後半、1点ビハインドの状況から追いつき、延長戦に持ち込んで一時は勝ち越しに成功。ラモスは2点とも絡んだ。PK戦にもつれ込んだ末、1984年9月の日韓定期戦以来8年ぶりに韓国を相手に勝利を手にすることになる。

「オフトについていく」覚悟

 信頼の共鳴がそこにはあった。その後オランダ遠征後に受けた雑誌のインタビューで監督批判をしたことが問題視されたものの、これはオフトに対しての不満が解消されていないときの話。お互いに腹を割って話す場が設けられて、許しを得たことでラモスは「オフトについていく」覚悟を決めた。

 ダイナスティカップ優勝は、Jリーグ人気にも飛び火する。開幕前年のプレ大会となったヤマザキナビスコカップが盛り上がりを見せた。10月に広島で開催されるアジアカップで初優勝できればどうなるかをラモスは想像した。日本代表の活躍がJリーグの未来を左右する責任の重さを感じ取っていた。

 グループリーグではUAE代表、北朝鮮代表を相手に2試合連続ドロー。首位を走るイラン代表との第3戦に勝たなければ、その先に進むことはできない。勝負どころの一戦を前に、ラモスは発熱して体調不良に陥ってしまう。

「風邪というわけでもなかった。ちゃんと練習しているし、栄養もしっかり摂っていたから。ただ、自分に凄くプレッシャーを掛けていた。日本でやっているし、テレビ中継もある。もし優勝できなかったら、ラモスが帰化したところで強くなってないじゃんってなる。学校に通っている子供たちにもそんなこと言われてしまうんじゃないかって。武井ドクターに言われたんですよ。ずっと試合のことばっかり考えているから、熱が出たんじゃないかって」

「イランに勝ったことがすべて」

 スコアレスでハーフタイムを迎え、ラモスは中山雅史とともに後半23分から出場。明らかに流れが変わるなかでカズのゴールが生まれ、日本が勝利を収めた。

「イランは強いし、相手をイライラさせるのも時間を使うのもうまい。一番難しい試合になると最初から思っていた。このイランに勝ったことがすべて。全員が自信を持てたんじゃないかな」

 準決勝の中国代表戦はGK松永成立の退場で窮地に立たされながらも、3−2と競り勝ち、そしてサウジアラビア代表との決勝も1−0で勝利して初優勝を収める。プレッシャーから解放されたラモスの喜びは言うまでもなかった。

 ユニフォームの袖に入った日の丸が揺れていた。代表カラーが赤から青に変わり、日の丸が入ってなかったことに異議を唱えたのがラモスであった。

「協会にも日の丸つけないならJSL選抜でいけばいいって言った。日の丸をつけて戦って、ワールドカップに行きたい。思ったことを言ったまで」

 日本代表の誇り――。それがあるから一つになって戦える。アジアカップの優勝がその成功体験になり、今の日本代表につながっていることは言うまでもない。

 日本のため、そしてオフトのためにワールドカップに行く。ラモスはその思いだけで30代半ばの肉体に鞭打って戦い続けた。そしていつしかオフトとは何でも話し合える関係性になっていた。

「ドーハの悲劇」ってみんな言うけど…

 1993年10月のアジア最終予選。勝てばワールドカップの切符をつかむことができる最後のイラク代表との一戦は後半ロスタイム、イラクのショートコーナーから失点を喫して同点に追いつかれ、夢が潰えてしまう。ラモスはピッチに力なく座り込み、しばらくの間立てなかった。

 インタビュー中、カプチーノの入った紙コップを手放さなかったラモスはそっと机の上に置いてから語った。

「私にとってオフトは兄貴ですよ。生意気な態度を取っていたんだから外しても良かったのに、逆に信頼してくれた。選手としても、一人の人間としても認めてくれた。感謝しかないですよ。

『ドーハの悲劇』ってみんな言うけど、私から言わせれば悲劇じゃないよ。だってアジアで勝てなかったチームがダイナスティカップで勝って、アジアカップで勝って、それでJリーグも盛り上がった。(木村)和司たちが頑張って、その次に私たちがワールドカップに手が届きそうなところまで行った。自分たちが成長していけば全然やれるんだって、そこから中田(英寿)たち次の世代の選手たちが出てきた。だから残せたのは悲劇なんかじゃなく、次へのメッセージだったんじゃないかな」

「ドーハの悲劇」前夜にあったラモスとオフトの衝突と協調。日本代表のためにぶつかったそのエネルギーが日本を強くした。怒るラモスが日本を目覚めさせ、その先に飛躍する代表ストーリーがあったのだ。

<後編に続く>

(取材協力・角田壮監)

文=二宮寿朗

photograph by Shigeki Yamamoto