10年間で7度の箱根駅伝優勝を成し遂げた青山学院大学の原晋監督。テレビのコメンテーターとしても活躍する名将はどのようにして箱根の頂点を毎年狙える組織を作り上げていったのか。その原点となった現役時代を『箱根駅伝 ナイン・ストーリーズ 』(文春文庫、2015年12月刊)より紹介する。肩書はすべて当時のもの(全3回の第1回/第2回、第3回へ続く)。

中京大卒の原と青学大を結びつけた縁

 中京大学出身の原にとって、箱根駅伝は縁遠い存在だった。大学卒業後、中国電力のサラリーマンとして働き、陸上からは足を洗っていた原が、青山学院大陸上競技部の監督になったのは、不思議な「縁」としかいいようがない。

 青山学院大は都会的なイメージが強い。スポーツ界では井口資仁(ただひと)(現・千葉ロッテマリーンズ)など一時期はプロ野球選手を輩出したが、陸上界では無名の存在だった。箱根駅伝には戦前の1943(昭和18)年に出場しているが、戦後になってからは1976年を最後に、予選会を突破できなかった。

青学大は駅伝に「経営資源」を集中投下

 大学側が本格的な陸上の強化に乗り出したのは、2003年のことである。21世紀に入り、大学によっては“生き残り戦略”の一環としてスポーツの強化を明確に打ち出していた。箱根駅伝は平均視聴率が25パーセントを超える優良コンテンツであり、しかも開催時期が大学入試の出願前とあって、PR効果も高い。

 青山学院大は駅伝だけでなく、野球、ラグビーにも援助を行っていたが、力を分散していては効果も散漫になるとして、駅伝に「経営資源」を集中的に投下することを決めた。

 長距離の強化に当たっては、指導者を探すことが重要だ。そこで白羽の矢が立ったのが原だった。

原晋の反骨心

 原は広島の名門校、世羅(せら)高校から中京大に進み、卒業後は郷里の中国電力に就職した。青山学院大とは縁もゆかりもない。

 たまたま、世羅高の2年後輩が青山学院大の陸上部の卒業生で、母校が監督を探していると聞き、原を紹介したのである。

「でも、私は中国電力ではほとんど走っとらんし、その後は普通のサラリーマン生活を送っていた。競技歴も、指導歴もほとんどなかった」

 指導者としての実績もなく、サラリーマンとして見通しが立っていた原が、なぜ監督になったのか。そこには陸上で結果を残せず見下され、それを見返したいという「反骨心」があった。

高校では「納得できない規則もありました」

 高校時代は世羅高の主将として、全国高校駅伝で京都の町を走った。

「まだ昭和の時代だったし、上下関係はそれは厳しかったですよ。寮の電話番をしていて、居眠りすると怒られたり、納得できない規則もありました。私はそれが嫌で、自分が最上級生になった時にずいぶんと雰囲気を変えたつもりです。もっと、楽しくやりたくてね。私が3年生だった時の1年生が、青山学院大に進み、私を大学に紹介してくれた人物なんです」

 人の縁が、人生に大きな影響を与える。

『鳴り物入り』での入社、しかしケガに苦しむ

 東京の大学に進みたいという気持ちもあったが、父が教員で、将来は体育の先生になって故郷に帰るというぼんやりとした人生設計もあり、中京大の体育学部に進んだ。

 大学でもそれなりに実績を残したことで、地元の中国電力から選手として勧誘されることになる。しかし、故障続きで結果を残すことが出来なかった。

「私は中国電力が体育を専攻していた選手を採用したいちばん最初の選手だったんです。まさに『鳴り物入り』での入社だったのに、怪我でまともに走ることが出来なかった。1年目の夏合宿で、ねんざをしたんです。たかが、ねんざと思うでしょう? 選手生命に関わります。今も、学生がねんざをすると、すぐに休ませます。私の現役時代は中途半端でした。治ってはまた怪我をする、その繰り返し。そのときの私には、陸上でメシを食っていくんだという覚悟も度胸もなくてね」

テレビで陸上なんて見る気もしない

 結局、入社5年目に引退に追い込まれた。

「引退じゃないです。はっきり言えば、クビでした。陸上で就職できたのに、まったくもっていい加減なヤツだと思っていた人もたくさんいたと思います。だから、テレビで陸上なんて見る気もしない。監督になるまで、ほとんど陸上とは無縁の生活をおくりました」

 子ども時代、家の裏には瀬戸内海の内湾が広がっていて、気が向けば海に飛び込んでいた。中学時代も走るのが好きだった。しかし、20代になって陸上が就職を決め、そして自分の評判を貶めてしまった。

 陸上から離れたことが、最終的に青山学院大との接点を作ることになる。現役を引退したあとの社内での状況は、原の言葉を借りれば「人格も否定されたようなもの」だった。そこで生まれてきたのは、人としてのプライド、尊厳だ。

これからの人生もずっと見られているんだよ

 仕事で実績を残す。それが原に残された道だった。

「選手をクビになって、私が救われたのは陸上部長を務めていた方から、『陸上では花が開かなかったけど、これからの人生もずっと見られているんだよ。しっかり仕事をやりなさい』という言葉をいただいたことです。これはありがたかった」

 中国電力の会社組織は、まず本店があり、支社、営業所、その下にお客様に対応するサービスセンターという構造形態になっていた。選手時代は優遇され、本店勤務という扱いだったが、引退後は営業所に回され、それからサービスセンターに配属にもなった。

原の営業メソッド

「会社員としても戦力外通告に近かったですね。『陸上バカ』には何も出来んだろうと、考えられていたと思います」

 仕事への意欲には満ちていたのに、原は燻(くすぶ)っていた。そんな時、会社が新事業を立ち上げることになり、プロジェクト・メンバーの社内公募があった。原は「待っていても仕事は来ない」と手を挙げ、新事業のメンバーに選ばれた。

 原が担当したのは「エコアイス」という商品だ。割安な夜間電力を利用して、夏は氷、冬は温水を使って昼間の空調に利用するシステムである。

「この商品の営業を担当しました。お得意先にマニュアル通りに説明しても、面白いとも思えなくてね。私の方法は、こんな感じです。学校にエコアイスを勧めた時は、学校は夏休みに空調機器を使っていませんから、基本的には必要のない設備かもしれない。それでもまだ『エコ』という言葉が浸透していない時代に、『これからはエコの時代です。商品だけではなく、太陽光発電も付けて、子どもたちの学習の場にしてください。そのためには私たちが出前授業もさせていただきます』と提案しました。単なる空調機器ではなく、教育機材として提案する方法に切り替えたんです。それにパチンコ店にも提案しました。『エコアイス・キャンペーン』と新台入れ替えキャンペーンみたいな形で話題に使ってください、と営業したりね」

 原はキャッチフレーズを作るのがうまい。2015年の箱根駅伝では、「ワクワク大作戦」という言葉を編み出し、その分かりやすさにメディアは食いついた。アイデアを単純な言葉に置き換えるのがうまいのである。そうした独自の言葉を作り出すのは、勉強だけでなく、自分の足で稼いだ上で獲得していくものだという。

活躍に異例の人事が発令

「徳山市(現・周南市)の産業道路沿いに、バアーッと会社が並んでるんです。ひとつひとつの会社に飛び込み営業をかけたことがあってね。それはノルマを達成するためじゃなく、何人ものお客さんから話を聞き、質問を受けることが目的だったんです。お客さんはどんなことを知りたいのか。それは会社が用意するマニュアルじゃ分からない。お客さんから質問を受けることで、だんだんと自分の言葉が見つかっていくんです」

 エコアイスで結果を残したことで、原は次に会社が新規事業を立ち上げるプロジェクト・メンバーの5人に選ばれ、広島の本店に帰る。

 今度は手を挙げたのではなく、指名である。サービスセンターまで飛ばされた人間が本店に戻ることは、通常では考えられない人事だった。原は、自力で帰ってきたのだ。

<つづく>

文=生島淳

photograph by Nanae Suzuki