王将戦で開幕した2024年の将棋界。その中でNBAを愛し、ファンからも人気が高い増田康宏七段(26)にバスケや将棋の共通点などを大いに語ってもらった。《全2回の2回目/第1回からつづく》

 NBAフリークとして知られる棋士・増田康宏七段。バスケットボールを筆頭にした様々なスポーツからインスピレーションを得て、自身の本分である将棋の盤上に生かそうとしている。

藤井さんは、選んだ手がAIの最善手と一致している

――増田さんも今、順位戦B級1組で単独首位(8勝2敗)を走っていて、A級昇級を目前にしています。強さを伸ばしているだけでなく、安定感が加わったような印象を受けます。

「昔とは変わりました。2020年頃、僕は過去いちばん弱い時期を迎えて、今のままじゃタイトル戦に出ることとか絶対に無理だよなと。それで根本から作り直しました。言ってみれば、自分自身を再建しようとしたんです。NBAでもサンダーのようなチームを応援するのは、再建されているものを見て学びたいからなのかもしれません」

――どのような変化を課したのでしょうか。

「何度も言うように、現代へのフィットではないです。弱い時期の自分は何も考えていませんでした。ただ将棋の勉強をやって、勝ったり負けたりして、喜んだり悔しがったりしていただけでした。もっと物事に対して深く考えるようにならなければダメだったんです」

――深く考える、とは。

「以前のように、AI研究を駆使して相手の棋譜や棋風を研究し尽くして勝とうとすることを放棄したんです。それをやってもあまり勝てず、自分には合わないということが分かったので。順位戦のことを考えてみてください。午前10時に始まって、深夜零時に決着するのが順位戦です。競り合いなら勝負が決するのは終局の1時間くらい前からです。当たり前ですけど、そんな時間帯にAIなんて全く関係ないですよね。

 もし、AI研究が勝負を左右するなら、AI研究から距離を置いている僕が今、ある程度の成績を残せていることはどう見たっておかしいことになります。だから、初手から最終手までAIの最善手を暗記して勝とうとすることなんて、全く意味がないんです。藤井さんが序盤から終局までほとんどAIの最善手を指し続けられるのは、藤井さんが誰よりも深くAIを研究しているからじゃないんです。強さがあまりにも異次元すぎて、選んだ手がAIの最善手と一致しているだけです」

サッカー界の話になりますが…

――先日の取材では「AI研究は終わった」とも語っていてビックリしました。

「これはサッカー界の話になりますが……」

――え、サッカー!……ですか? そちらも見ていたとは……。

「はい。近年になって、指導者が選手に対してコーチングしない、という考え方がサッカーでは注目されています。フィールド上での1プレイを判断するのは結局のところ選手自身で、コーチがサイドラインの外から1プレイごとに指示を出すことは不可能ですよね。ならば、練習時から選手たちに次のプレイを判断し実行する習慣を付けさせる。このようなことはAIと棋士の関係に置き換えられるのではないかと考えています。AIの考え方を採り入れすぎることで、逆に実戦で正しい判断が出来なくなるのではないか。

 そもそも人は勝手に学習していくものです。練習で選手がミスをしても、コーチはひとまず待つ。もしかしたら選手はミスから自発的に学び、想像を超える向上を見せる可能性があるので。将棋は思考時間が長いので同じではないかもしれませんが、私が持ち時間の短いフィッシャールール(一手指すごとに持ち時間が加算される超早指しルール)でよく勝てているのは、AIにコーチされていないからこその一瞬の状況判断によるものが大きいと思っています。今後は変わるかもしれませんが、現状ではAIを使わずに強くなれるのでは、という考え方を捨て切れてはいません」

長時間対局に耐えられる体を作るために食事や睡眠を

――ならば、何をどのように再建し、棋士としての成長を実感しているのでしょうか。

「詳しくは言いにくいところはありますが、将棋をどのようにトレーニングしていけるか、ということへの理解を深めました。さらに、どうしたら強くなれるか、ということだけでなく、食事や睡眠をどのように取るか、どうしたら長い対局に耐えられるだけの体を作れるか、ということを一から考え直しました。すぐには難しいことでしたけど、時間をかけて取り組もうと思いました。NBAで言えば、プレスティが未来を見据えたサンダーや、マイアミ・ヒートのようなイメージで」

――ヒートは昨季のプレイオフで第7シードからファイナルに進出しました。ドラフト外入団のプレイヤーが何人も主力を張るチームの快進撃は話題になりましたよね。

「2008-09シーズンからチームを率いているエリック・スポルストラは、もともとビデオコーディネーターとしてNBAに入ってきた人です。レブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュというスーパースタートリオ『スリーキングス』が主力だった11-12シーズンから連覇を達成したヘッドコーチになりましたけど、今は若い無名選手にチャンスを与える方針に転換していますよね。ハードワークを課すチームとしてのスタイルは『ヒートカルチャー』とも言われます。加入した選手は皆、体がバッキバキになるらしいですね(笑)。あ、そういえば、ヒートで好きなエピソードがひとつあるんです」

「ヒートで好きなエピソード」がとてつもなく濃い

――ぜひ教えてください(笑)。

「16年にジョシュ・リチャードソンが2巡目の下位指名ルーキーで入って来て、練習場でスリーポイントのシューティング(シュート練習)を始めようとした時、見ていたスポルストラが『ルールを設けよう』と声を掛けたらしいんです。『これから100本打って70本以上決めたら君の勝ちだ。でも、70本以下だったら君の負け。罰としてコートを往復するスプリントを5本やるんだ』と。リチャードソンは最初64本で届かなくて罰走して、次、疲れた状態で69本決めて、さすがに許されると思ったら『ルールは70本だろう』とスポルストラは再チャレンジを促したらしくて。

 リチャードソンはさすがに反発したらしいですけど『反発する気持ちがあるならやれるはずだ』と返したみたいです。で、最後になんとか70本をクリアした時、スポルストラは『君がヒートで、NBAで活躍していきたいなら今日のようにハードワークを続けることを忘れるな』と言ったらしいです。リチャードソンは一流の選手になって、何チームを経て今季からヒートに戻りましたけど『あの時、スポルストラに言われたことは自分のキャリアにとってとても大きかったんだ』と明かしていて、今でも自分自身で70本のルールを課してシューティングしているらしいです。僕自身も、規律を守るということは、自分を再建しようとする中でとても重要視したことです。同じようにチームの再建に成功したブラッド・スティーブンス(セルティックス元ヘッドコーチ、現GM)、ニック・ナース(ラプターズ前ヘッドコーチ、シクサーズ現ヘッドコーチ)からも学ぶものがありました」

藤井さんに対抗するのはかなり難しい。だからこそ…

――今は藤井八冠が圧倒的な形で君臨しているため、再建に取り組む時期として適しているのかもしれませんね。

「今の藤井さんはケビン・デュラントが加入した頃のウォリアーズのようなもの(2016-17シーズン。前季にNBA記録の73勝9敗を記録した)なので、対抗するのはかなり難しいんです。だから、今を見るのではなく先を見据えようと思いました。今のところうまくいっているので、そろそろ再建期は終わりにしたいですね。A級に昇級した時が再建期を終える時です。A級棋士になって再建とか言っていられないので」

――A級を目の前にした今、思い返してみると、藤井八冠が増田さんを相手に29連勝をしてから7年になるんですね。

「いや〜もう随分と前ですね。今考えると、あの頃の自分は弱かったです。弱いから余計なことも考えず、7割くらい勝つことができていたのがよくなかったですね。今の自分が当時の自分と100局指すなら80勝、いや85勝はしたいと思うくらい弱かった。あの翌年に藤井さんに勝てたんですけど、実力は完全に藤井さんの方が上でした。当時は勝てて喜んでいただけですけど、自分はまだまだ弱い、ということを理解している今はちょっと違うと思います」

将棋のタイトルもNBAのチャンピオンリングも普通では…

――これから目指すものは。

「もちろんタイトルを獲りたいと思いますけど、将棋のタイトルもNBAのチャンピオンリングも普通では絶対獲れません。幸運に恵まれてタイトル戦に出ても、藤井さん相手にいきなり獲れてしまうものではないです。だから、まずは出てみないと課題も差も分からない。今はタイトル戦に出たいと心から思っていますし、もっと成長さえできればいけそうな気もしているんです」

――以前と今とでは、対局室にいる時の増田さんの様子は全く違う印象を受けます。いつも自然体で、緊張も気負いも感じさせることもなく戦い始め、淡々と勝っているように見えます。

「対局室に入って盤の前に座った時、もう勝負の結果は決まっていると思っているからかもしれません。相手もみんな強いですから、対局の時に必死になって勝つために頑張っているだけでは充分じゃない。重要なのは対局当日にベストで戦えるように準備ができているか、コンディションは整っているか、ということだと思っています。以前は、読みでは勝っていたのに疲れ果てて最後の最後の勝負に負けた、というような対局が何度もありましたけど、今では少なくなりました。またNBAから離れちゃいますけど、自分はF1ドライバーも参考にしました」

勝負を分けるのはマインドセットです

――F1……増田さんは完全にオールラウンドプレイヤーですね。

「いやあ、まだまだです(笑)。F1はマシンの性能が結果に大きく影響しますけど、ドライバー自身もランニングなどのワークアウトに取り組んで常にコンディションを整えています。レース終盤では蓄積した疲労によって認知機能が低下するそうで、取るべきではないリスクを冒したりすることを避けるためのようです。また、心肺機能を鍛えるとレース中のストレスにも強くなるようです。年間王者を続けるマックス・フェルスタッペンでも誰でも、日常と生活の規律で負ければレースにも負けるはずで、棋士も同じです。勝負を分けるのはマインドセットです」

――棋士が「マインドセット」という単語を口にするのを初めて聞きました。

「ウォリアーズのアシスタントコーチだったマイク・ブラウンは昨季、ドアマットチームのサクラメント・キングスのヘッドコーチに就任し、いきなり48勝を挙げてNBAのコーチ・オブ・ジ・イヤーを満票で受賞しました。彼はチームに加わった日に選手たちに言ったらしいんです。『ウォリアーズのベンチから見ている時、君たちの目には怯えの色があった。怯えは負け癖を生む。怯えるな。君たちは戦えるんだ』と。マインドセットを変えることによって結果が変わることを示していると思います」

当たり前ですけど、最後はみんな勝ちたいんです

――超一流ばかりが辿り着けるような世界でも、技術よりも心によって結果が変わっていくのは、なんというかとても美しいことのようにも思えます。

「当たり前ですけど、最後はみんな勝ちたいんです。NBAのスーパースターになれば莫大な富を得ます。でも、誰もが最後はチャンピオンリングを追い求める。勝ちたいというマインドセットが必ずあるんです。僕も最後は……やはり勝ちたいと思っています」

<第1回からつづく>

文=北野新太

photograph by Keiji Ishikawa